ショートショート
鏡の向こうに見つめるもの
2009年12月19日 17:01
目が覚めて最初に気がついたのは涙の感触だった。
夢の内容は頭の中があいまいすぎて覚えては居ない。だけど、昨日の追体験かそれに近い何かであろう事は何となくだけど分かる。
知らなければいけないけれど、知りたくはなかった事。無邪気なあたしの夢は愚かな勘違いへと形を変えた。それからまだ二十四時間すら経っていない。
暴れる気持ちはもはや行き場を失った。そして、それにこれから振り回されると言う終わりの見えない迷子の時間。胸にあるのは虚無感だ。
あたしは昨日。生まれてはじめての失恋を経験した。生まれて初めての片想いが終わった。
あの出来事より前、あたしは根拠のない希望に突き動かされて幸せなステップを踏みながら日々を過ごしていた。いつか来る幸せな日々を心待ちにしながら。
あの子の手を握るのはあたし。あの子に口づけするのもあたし。あの子を抱きしめるのもあたし。
特別な二人だけに許されたその全てはあたしのものになるはずだった。
だけど、それは勘違い。あの子の全てはあの飄々としたよそ者、この村の外からやってきた青年のものになっていた。
あたしだけは特別なはずだったのに。それなのに、特別なのはあのよそ者。あたしはあいも変わらずその他大勢でしかない。
あたしはベッドの中で何もせずに居る時間に惨めさを感じて、起き上がると父にねだって買ってもらった花かごのような枠を持つ全身鏡に映る自分の姿を見る。
そこに映るのは甘く柔らかく、女の子を象徴する言葉で形容されようと慎重に形作ってきたあたし自身。
長くゆるい巻き髪。桜色で染めた爪。長いまつげ。同じくらいの年の子たちよりも育った胸。紅色の頬。
あたしが自分に対して好きと思えるものは全て、あなたのためにと思っていたから。作り上げたものはあなたのための努力。そうでないものは神様があなたと結ばれた時のために与えてくれたもの。――そう、思っていた。そう信じていた。
だけど、あたしはこうしてひとりぼっち。それは前からだけど、未来にもそうである事を思い知るとここまで全てがからっぽに見えてしまう。
そして、鏡に映る自分が急に憎らしくなった。あの子のために意味もないのに一生懸命作り上げた自分が愚かに思えてきたから。
だけど、自分を本当に憎むなんて事は難しい。そして、気がつくと眠りながら流した涙の続きが目からこぼれおちた。
一滴、二滴、三滴……そうして数えられないほどに。
あたしはその場に崩れ落ちた。大切に着ていたフリルのたくさんついたネグリジェが濡れるのもかまわず、涙を流し続ける。あの子の名前を呼びたくなるのを必死でこらえて。だけど、そうして生まれる心の奥底にあるわけの分からないものには絶えられない。他にどうしていいのか分からず絶えず涙を流す。
そして、言葉も感触も体や頭のあらゆるものが混乱し続けた結果やってきたのは皮肉にもあのよそ者に抱かれるあの子の想像だった。あたしの感情にその想像は絶望感を置いてどこかへ行く。
どれだけの間、泣いていたのかは分からなかったけれど涙はいろいろなものを流して行ってしまった。いいものも悪いものも。時に必要なものですらも。
廃墟の様に崩れかけたあたしの心に残った想いはたったの一つだった。
今のあたしを変えてしまおう。壊してしまおう。それだけだ。
昼が来てあたしは友達を訪ねた。小さな頃から一緒の友達で、あたしを何でも知っている子だ。彼女はきっとあたしがあの子を好きであることを知る唯一の人物だろう。
昨日も絶望のあまり自暴自棄になったあたしを支えてくれたのも彼女だ。
甘えてばかりでこのままでは良くないとは思うけども、それでもこういう時は甘えたくなってしまう。
チャイムに呼ばれドアを開けて出てきた彼女は、いつもの微笑みではなかったけれど、優しげな目であたしの事を出迎えてくれた。
いつもなら部屋に案内されるところだけど、今日は居間に案内された。
彼女のお母様はお出かけされているらしい。確かに、この村の役員をされていれば休みの日といえどしなければならない事も多いのだろう。
「実はね、私のほうから行こうと思っていたの。あのあと、家に送り届けてからも心配だったから」
彼女はそう言ってお茶を注ぐ。薄い黄色がカップに広がると同時にりんごのような香りが広がる。カミツレ茶のようだ。
この香りは自然と安らぎを体に満たしてくれるような気がする。
「だけど、来てくれたのね。心配してたのよ。でも、よかった。手首にも傷がないし、それだけ歩けるなら薬も飲んでないだろうし」
「そんな。あたし、そんなことしないわ」
「冗談よ。だけど、今日は一日、ひとりで泣き続けるとは思っていたの。だけど、穏やかな顔でここまで来れたのだから取り越し苦労だったわ」
彼女がそう言うとあたしは今朝、これまでで初めてというくらいに大泣きしたことを思い出した。もう、泣く涙も残ってはいないと思う。穏やかとは言ったけれど、実際のところあたしにあるのは虚無感だ。
あたしは返す言葉も見つからず、黙り込む。
友達はそんなあたしの様子を察してかティーカップに注がれたカミツレ茶を飲み干す。そして、カップを置くとあたしの方をじっと見た。
「大丈夫よ。きっとね。今は辛いけどそのうち笑って話せるようになるわ。でも、しばらくはきっと辛い。だから、私に出来ることがあったら言って欲しいの」
「うん……」
「本当よ。早く、笑っている顔を見たいから。早く、悲しまないでいられるあなたを見たいから」
「あのね……」
あたしは言うべきか言わないべきか少し迷った。今日、ここに来たのは虚無感で不安でたまらなくて友達の顔を見たくなったからだ。だけど、それだけじゃない。頼みごともあったから。
「どうしたの?」
「髪を切りたいの」
「髪を? まだ、それほど伸びきってもいないわ」
「その。もっと短くしたいから……」
なんとなく言い出しづらくてもじもじした言い方になってしまった。この長く伸ばした髪があの子への思いの象徴のようで嫌になった。怖くなった。それが理由だ。だけど、恥ずかしくてそこまでは言えない。
だけど、友達はあたしが言葉を続けられずに困っているのを見ると、柔らかく微笑んだ。
「そうね。もう少し似合う髪形もあるはずよね。いいわ。準備をしましょう」
友達はそう言って立ち上がる。そして、あたしの手を引く。
「ただ、切る前に約束をして欲しいの」
「うん……」
「どんな髪にするかは私に任せて欲しいの」
あたしは少し怖く感じたけれど、友達のその言葉に小さく頷いた。
案内されたのは友達の家にある小さな庭だった。
庭としては小さいけれど柵を設けていないのもあるし、外には大きな原っぱが広がっているからとても開放的な場所だ。
そこに椅子を置いて、あたしは彼女に髪を切られる。
美容室の様に鏡があるわけじゃない。それに髪型も友達任せ。どうなるのかは分からない。だけど、その不安は今の気持ちにぴったりだった。そして、どこまでも広い景色にふたりぼっちという気分も。
「腕には自信があるけど、私の選択があなたにとってどうなのかは分からないわ。それでも文句は言わないで。それでいいわね?」
「いいって言ったはずよ」
「そうね」
友達は楽しそうにそう言うとあたしの髪にはさみを入れ始めた。
少しずつ。そう想像していたけれど、彼女はずいぶんと大胆にあたしの髪を切っていく。腰に届くかという髪は気がつくと肩の長さまでに切られたようだ。
エプロンや地面の下に敷いたレジャーシートには長い髪の毛が散らばっている。
友達は鏡をここに持ってきている。だけど、切り終わるまでは見せてくれないそうだ。
この時間が終わるころ、あたしはどんな姿になっているんだろう。小さな頃から髪を長くしてきているから、短くなった姿というものは想像できない。
だけど、どんな姿でも受け入れる気がしていた。それは友達に対する信頼もあるし、あの子のための自分を辞めたいというのもある。
そもそもあの子のための自分なんて思い上がりもいいところだ。あの子はあたしのものにならない。それに、その事実はごく当たり前のこと。どんなに願ったって意味のない事だ。
友達は前髪を切っている時、それまで何も喋らなかったのに急に他愛もない話を始めた。あたしの表情が曇っているのに気がついたんだろう。
あたしは気がつくと笑っていた。本当に下らない話ばかりだったけど、それでも彼女と話していると不思議と安心できた。
ひとりぼっち……そんな事を思ったことが馬鹿の様に思えた。恋は駄目でも、友達はいてくれるって事が分からなかったなんて。そうしていると、あたしは自然と他の友達の事も思い出していた。ひとりで泣いてるなんて、最初はいいかもしれない、仕方ないかもしれないけれどずっと続けるものじゃない。
友達はそのままはさみを操り、細かく整える。そして、はさみを持つ手が止まり、あたしの事を満足そうな目で見つめた。
「できたよ」
笑顔で言う。あたしも自然と笑みがこぼれる。
「さて……」
友達は木に立てかけていた古い大きな鏡を裏返してこちらに向ける。
「こっちへ来て!」
あたしはその言葉に促されてエプロンを脱ぎ捨て友達の元へ向かう。
そして、鏡に映る自分の姿を見てとても不思議な気持ちになった。
そこに居たのは綺麗に切りそろえられて整ったボブのあたしだった。とっても、さわやかそうな少女に姿を変えていた。甘ったるくて甘え上手な女の子――そんな形容をされる姿だった過去の自分が嘘のようだ。
「どう?」
「別人みたい」
「よかった」
あたしは顔の向きを変えながら様々な角度から見た自分を確かめる。気持ちがすっきりしたような気分だ。寂しくもあるけど、でも、すがすがしい。
「ずっとね、あなたの長い髪をこうしたいって思ってたの。特に、昨日はね。自分で自分を縛り付けているように見えたから」
友達はあたしの隣であたしの横顔を眺めながら言う。あたしは鏡ごしに彼女を見ている。
「ねぇ、まだ辛い?」
「気は楽になったけど。でも……」
「それでいいの。たった一日よ? こういう傷はいうのは簡単に癒えないもの」
「うん……」
「だけどね、聞いて欲しい事があるの」
あたしの横顔を見ていた友達は前を向いた。あたしたちは鏡に映るお互いを見ている。
「いつか。傷が癒えて誰かに恋をしたいと思ったときは――その時は、私の事を考えてほしいの。考えてくれるだけで構わない。それで駄目ならそれでいいわ」
鏡の向こうのあたしは彼女の言葉に目を見開いている。
「それって……」
「消極的な告白、かな? 正直言うとね、ずっと悔しかったの。あなたがずっと彼女の事を見ていた事。だけど、幸せにはなってもらいたいし、泣いては欲しくないし、そんな矛盾した気持ちに苦しんでた。だけど、あなたは彼女に失恋した。それを嬉しくは思わないけど、まっさきにあなたが心配だったけど、でも、そこで思ったの。私の出番だって。こういう時にそばにいてあげられるのは私だけだって」
「……あたし、その」
「忘れてくれていいの。ただ、聞いて欲しかっただけだから。私こそごめん……」
驚いた。彼女があたしにそんな感情を持っていたなんて。
気まずい沈黙が流れる。お互いに鏡越しに見つめあったまま、何もいわずに時をやり過ごしている。
「さぁ、これで完成よ」
沈黙を破ったのは彼女の方だった。芝居だろうけども、動揺した態度も気まずさも感じさせずにたった今の会話がなかったかのように振舞う。
「片付け、するね」
「うん。あたし、帰る」
「うん。明日学校でね」
「うん」
普段なら手伝ってた。だけど、どうしていいのか分からず逃げ出すようにあたしは彼女の家をあとにした。彼女はそんなあたしにいつもどおりに接した。
あたしは家への歩調を速めた。
ひとり、公園で時間を過ごしていた。そして、友達に言われた言葉を反芻した。
片想いが崩れ去ったショック。今日の言葉。どちらも大きすぎて小さなあたしには抱えられそうになかった。
けれど、風の冷たさをいつもより感じることになった、あたしの首筋に変わった自分自身を実感すると今のあたしが昨日までの自分とは違うものに思えた。
あの子の事を好きで、あの子に見て欲しくて作り上げた自分はもうここにはいない。
自分として、まだ何もないけれど誰かのためじゃない自分がここにいる。
まだ、あの子のことは好きだけど、それは治る前の傷のようなものでいつかそれも痛みの様に忘れてしまうんじゃないかと思えてきた。
その先には何が待っているんだろうか。誰にも恋をしていない自分? それとも……。
何となくだけど、今日、友達から言われたことは「忘れて」と言われてもしっかり覚えている事は確かだ。もしかしらたら、このまだまだ大きい片想いの残りを捨てきる事がでいたら、今度は彼女に恋をするのかもしれない。
まだ、わからないけれど。
ただ、確実にいえるのは動揺と不安、悲しみと穏やかさ、矛盾した気持ちの混ざり合ったものの中を泳ぎ続けて日々を過ごすということだ。
その先に何があるかはそれから考えればいいと思う。