ショートショート

約束と覚悟の差分

2008年12月31日 15:18

 何度も時計を見たって期待したほど時間は進んでくれていない。

 屋上に聞こえてくる街の雑踏は気がついたら耳に入らなくなっている。

 僕は友達が煙草を吸っているのを思い出して、煙草を吸うのなら時間がつぶせるんじゃないかと羨ましく思ってみる。

 約束の時間はまだ先だし、どうせ遅れてくるに決まっている。

 高い空。時々、すずめがここに来てチチッって何度か鳴いてはどこかへ飛んでいく。何もすることの無い時間はこうしてちょっとした出来事が目に入りやすい。

 雑踏が消えるから余計にそうだ。

 僕はすぐ後ろの給水塔もたれかかる。なんだか冷たくて気持ちいい。それに小さく囁くように聞こえる水の流れがそれを余計に感じさせる。

 なんとなく、この間、知ったばかりの歌を口ずさむ。フランス語の曲だから歌詞はわからないけど、耳に残っているいんちきな歌詞とハミングでいい加減な再現の歌。

 この時だけは小学校を卒業する頃には嫌いになっていたこの声を好きになれる気がする。顕微鏡で使うあの薄いガラス板のように壊れやすそうなあの雰囲気の歌にはぴったりだ。

 給水塔の中を流れる水の伴奏と典型的な思春期の女の子の声。僕のいるこの静かな屋上で待ちぼうけの一人ぼっちを演出するには十分なものがそろっている。

 気がついたら閉じていた目を開けるとそこには君がいた。

 僕はあわてて腕時計を見る。今は三時四十二分。約束の時間よりもずいぶんと早い。

 驚いた事を悟られないように居眠りをしていたみたいに装いながら気だるそうに隣に座ったばかりの君を見る。

「何、歌ってたの?」

「題名、忘れたよ」

「聞いた事はあるかな」

「有名な曲みたいだから」

 いつも通りの会話。不機嫌だと誤解されやすい僕とからかう様に喋る君。言葉が足りないようで、十分すぎるほどに伝わる会話。それこそ、長年連れ添った年寄りの夫婦のような。

 そして、これもいつも通り、君はその小さな左手で僕の右手をとてもさりげなく握る。

 僕が君の方を見ると、君は僕に肩を寄せていて服越しで体温こそ伝わらないものの、かすかに感じる柔らかさがため息を誘う。

「国道沿いの古本屋でね、たまたま見つけた本をようやく読み終わったの。その本みたいにすれば全部解決するのにって思ったんだけど。まぁ、無理よね」

 そう言うと耳元に顔を寄せて君は息を吸い込む。その耳に聞こえる空気の音に僕はつい一週間前の今日を思い出す。記憶が鮮明すぎて無意識に足がピクッっと動くのに気がついた。

「みんな殺しちゃえば私たちは自由になれるんだよ……」

 小さな震え。その位のかすかな声だけど、言葉はとても強い。僕は君の言葉に寒気を覚えた。

「何言ってるんだよ!」

「頭の中だけなら何したって自由じゃない。現実にやるわけにはいかないけどさ。だからこうして皆を殺して、私たちは二人きりでここに住むの」

 悪趣味な話だ。僕は君の話にそうとしか思えなかった。でも、二人きりで居続ける方法があるならそうしたいって気持ちは一緒だ。

 僕なら屋上のドアにバリケードを作る。

「本の二人がそうしたけど、オチはうまくいかないって事なんだよね」

「そんなもんだよ」

「間違ってたなんて、言われたくないのにな」

 君はそっと僕の左肩まで手を伸ばす。右手は頬をそっと撫でる。

 でたらめなフランス語じゃなくて日本語。僕の耳に届くのは君を待ちながら歌った歌。 歌詞を初めて知った。そうだよ、間違いなんかじゃない。あんな結論を押し付けられるなんて大人たちはどうにかしてる。

 僕たちはそれからしばらく抱き合っていた。ときどきキスをしたりしながら。

 こうしていられるのはあと少しなのに、この続きをどうしても望んでしまう。一週間前はそうしたわけで、でも、それを見つかってしまったからあと何十分か後に来る想像もしたくないような世界を呼び寄せてしまったんだ。

「もう一度だけ」

 そう言って、君ともう一度キスをする。お互いの唇が離れた後、君は上目遣いで満足そうに僕を見る。

 セーラー服のリボンを解く様子を見て僕は少しだけ期待してしまった。この先があるような。二人きりで大人になっても居られるような。

 でも、違う。君はリボンを映画スターがバカンスに向かう空港の通路で身につけるスカーフの様に僕の首に巻きつける。

「行かなきゃ」

 そう言って君はいつも通りに立ち上がってそそくさと給水塔の土台にかけられた梯子を降りていく。

 僕はここに座ったまま、下に居る君を見下ろす。

 土台に隠れずお互いに全身を見渡せる場所まで行くと、君は左手を僕に見せてその薬指にキスをしてみせる。そして、唇が三度動いて声なしに何かを言った。

 きっと「またね」って言ったんだ。約束したから、もう一度会うために。

 僕は微笑んで黙って君を見送る。君は約束を信じているみたいだ。ためらいもせずにすたすたと歩いて屋上を後にする。

 そして、僕はまた二人きりになった屋上で二つの考え事を同時にしていた。

 一つ目は一週間の前の視聴覚準備室でのこと。二つ目は今日の夜に行くレストランでの事。

 視聴覚室で僕と君がした事が悪い事だなんて間違ってる。好きな人に触れたいって事がいけないなんてどうかしてる。

 今日、レストランで行われるのは僕にとっての死刑執行だ。救いのつもりで罰を与えられる。両親は心配してくれているけど、本当に心配しているなら僕から別れの方を奪うべきだったのに。

 昨日の夜に母親からしつこく聞かされた。「彼はとってもいい人よ」って。

 冗談じゃない。一度だけ会った事があるけど、あいつに抱かれなきゃいけないなんて吐き気がする。それに両親が僕とあいつをどうしようとしてるかもよく知ってる。

 君の言った「またね」はきっと叶わない。もういっそのこと給水塔に沈んで君の居なくなったこの世界からおさらばしてしまおうか。

 そんな事できるわけなんてない。僕は自分のリボンを解いて風に流す。

 君がいらなくなるからくれたリボンを首から解いてセーラー服の襟に結びなおす。

 ここの他に僕が落ち着いて座れる場所なんてもうどこにもないんだ。

 僕は絶対に正しい。僕と君の関係は間違いじゃないし、失敗した事は肌を重ねた事じゃなくそれを見つかった事だ。僕たちはあるべき心で生きている。そうだよね、君もそう思っているだろ?

 僕は馬鹿だ。逃げればいいはずなのに、どうしても自分にそうさせる方法を知らないんだ。

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