ショートショート
策略家は悲劇を渡る
2009年05月25日 0:37
一歩、そしてまた一歩。
暗い階段を私に上って行く。先を見たくないけれど、そんな事してる場合じゃない。
この階段の先では適度な雲がバランスのいい青空の下で、あの子が空に似合わずこの世の終わりのような顔をしてるに違いない。
あの子は泣きたいのに格好つけてる。そして、すました顔をして苛立って。
そこが可愛くて私はあの子を好きになったんだ。過剰な計画はみっともないと思うけどこれは心地いい予定外の出来事。そして、これから先をどこまで変えるか見当もつかないほど大きなインパクト。
あの子はそれを自覚しちゃいないのは確かだけど。けど、私には分かってる。
使い古された言葉。だけど、こいつは運命って奴だ。
この恋はこれまでと違う。そして、こんな恋は私の人生に無いはずだった。けど、こうして私の胸の奥底に確かに宿っている。
つい一週間前、あの時に気がついたんだ。この人を愛するのが私の役割なんだって。今まで手を握ったり唇を重ねたりしながらも、それ以上は「早い」を理由に避けてきたのに、あの子は色々な事をスピーディにそして、着実に成し遂げる事が出来た。
まだ私ははっきりと覚えてるんだ。あの子を愛する事で得られた感触。そして、不公平だって、それが片利共生に見えたって、私は十分に幸せだ。与えるものとそれを受けるもの。気持ちが交わされていれば形なんてかまわない。そこにあるのは想い合う自由だ。
ドアを前にして私は歩みを止める。
大丈夫。まだ時間はある。慌てる必要は無い。慌てれば後が辛くなるだけ。ここから先、ドアを開けてから先の私の時間はどこまでも着実で、そして、しなやかに強い気持ちで動かなければならない。
だから、想いにはしゃぐ事も再び階段を降りた時間を恐れる事もあってはいけない。
今は、はしゃいでしまう方が心配。愛する人との時間の共有は過剰に想いを膨らませてしまうものだ。
下手な焦りを感じるようならきっとあの子を不安にさせる。今、私がする事は安心させてあげる事。弱虫だって知ってるから、辛くても我慢してしまう人だから、私は限られた時間の中で包み込んであげなきゃいけない。
強がりはそれだけもろい。過去の私がそうだった。戦わなきゃいけないあの子はそれ以上だ。
だけど、馬鹿な子。本当は私に甘えればいいんだ。なのに、それが出来ない。自分が私の事を守るものだと思ってる。お互いにもたれるだけで十分なのに。それに、私の方が強いんだから、安心して胸を借りればいいのに。
でも、やっぱり、何度考えてもそういうところが愛おしい。本当はひとときも離れずに一緒にいたいけど、離れなきゃいけないのは仕方のないことだよね。
それも、「あれ」がきっかけか。
屋上のドアのすりガラスからやってくる青い光をまっすぐに見て私は階段を上ることで乱れた息を整える。深く息を吸ったり吐いたり。この音、あの時のあの子の息づかいにそっくりだ。
あの日から私の両手はひとしく役割を与えられた。パブリックな左手、プライベートな右手。
あの日までは左手にしかあの子を愛する役割はなかった。ふたりで出かける時にはいつだって私が立つのは右側。だからつなぐのは左手。
そして、私の利き手の右手はあの日、深く、言葉で足りない気持ちを伝える為に賢明に働いた。これで公平。そして、私はあの子の愛し方をひとつ学んだ。
耳に届く息づかい。指先の暖かさ。こうして思い知るんだ。私はあの子がどれだけ好きかを。
さぁ行こう。未来の私の肌があの暖かさを感じていられるように。その未来がくる前にあの子が強がりと弱虫さに砕かれてしまわないように、今できる限りの優しさをあげないと。
すりガラスの予行演習の甲斐もなく、日の光にさらされた私の目は痛みのような感覚を味わずにいられなかった。
すぐに目が慣れたけど、思ったよりも景色は深く青い。希望を持ちながらも悲しい私とただ絶望におびえるあの子に皮肉を言うように綺麗な空。そして耳に届く歌。
フランス語のつもりなのね。でたらめ。耳に残る音を欠けた音を適当に補いながら紡ぐ歌。きっと知らないんだ。あの歌はもともと私たちの言葉で綴られているって事を。
なんとなくふらっと現れるふりをして私は給水塔の元に座っているあの子を見る。向こうは気がついてない。
給水塔を乗せた小さな箱のような部屋の壁、そこに付けられた梯子を登って私はあの子の元へ行く。給水塔にもたれたあの子は何となくだと誰にもわかるように無造作に目を開けて私に気付く。
「何、歌ってたの?」
「題名、忘れたよ」
「聞いた事はあるかな」
「有名な曲みたいだから」
いつも通り、素っ気ないようでその場を満たす「好き」に満たされた会話。変わらないけれど、でも、今日は少し複雑なものが混ざっている。お互いの知らないものを知った気恥ずかしさとこの後にくる孤独への怯え。
目はしっかり私に訴えかけてる。すました顔をしていてもそれでも、救われないと震えてる。限られた時間、あの子はきっと希望なんて持てない。だから、私が作る未来まで耐えてくれるように今はできる限りの事で愛してあげないと。
街を歩くときのようにそっと左手で愛しいあなたの右手に触れる。できれば右手がいい。だけど、ここではできない。無防備だし、時間も足りない。今は言葉と無言のコントラストが必要だから。
本当に相変わらずのすました顔。だけど、目は近くで見ると余計に痛々しく泣きたがっている。
あなたを苦しめるもの。私たちを否定するもの。全部壊れればいい。
「みんな殺しちゃえば私たちは自由になれるんだよ……」
口をついて出た言葉はあまりに乱暴だった。あなたは怒ったそぶりで私に驚き、私はとっさの事で自分でも驚きながら言い訳を探す。
そう、あの本のせいだ。私たちみたいな二人組が引き裂かれようとしている時に企む母殺しの話。
愛のために――そんな言葉は本の中だけでしか肯定されない。この間、嫌ってほど思い知らされたばかりだ。
こんなに実直なあなたを追い詰めなきゃいけないなんて、この社会はいろいろとどうかしてる。許せない。許しちゃいけない。
私はこの小さな体よりも空に近い位置から世界を眺めるあなたの肩に手をかけてそっと近づく。本当に胸元に少しだけ指先が動いたけれど、今は駄目。抱きしめるだけ。強くはなくでも、近く、お互いのセーラー服を溶かして、そして、すべてが混ざり合うかのように。
そして、私はここに来てすぐに聞いたうろ覚えの歌をふだん交わしている言葉で歌い直す。大人になって行き止まりで苦しむ人の過去を悔やみ、幸せを思い出そうとする歌。
あなたは私の歌声から意味を知ると悲しそうに私のおさげの向こうの空を見ている。
歌が終わると私はそっと口づけをする。小さな、いつも女の子らしさを隠そうとするあなたの小さなくちびるに。それでも薄く塗られたグロスの感触は感じてしまう。これは私が喜ぶからだよね。あなたはアクセサリーや化粧が嫌いなはずだもの。
愛おしい。大好きなんだ。一度じゃ足りない。目が合うたびにキスをする。そして、くちびるを話すたびに時計を見ながら。
お気に入りの時計なのにこんなに憎く感じるなんて。私も怯えてるんだ。自覚、しないわけにはいかない。
「もう一度だけ」
そう言って、私はこの屋上で最後のキスをする。深く。そして、この先の大変な道に私が負けないように細胞一つ一つでって言いたくなるほど感触をたどりながら。
大好き。本当に、大好き。
「行かなきゃ」
できるだけ軽い口調を装いながらそう言うと、不安で顔を染めてることに気付かれないように梯子を降りる。今は死角、彼女から見えるまでにいつもの顔でいないと。
私は彼女の視界に入るだろう場所まで来ると振り返り笑ってみせる。
「ま・た・ね」
勘のいいあなたなら気付くはずよ。これが宣言の一つ目。
そして、宣言の二つ目。左の手のひらを見せて、薬指にキスをしてみせる。
投げキスみたいなもの。だけど、それ以上の意味がある。
アクセサリーが嫌いなあなたに将来の指輪を贈る。私とお揃い。
さぁ、ここからは無垢な少女の私じゃない。壊すんだ。こっそりと白蟻のように甘い防護壁の抜け穴から奪うために、取り返すために。
振り返らない。振り返ればためらってしまうから。先ほどの口調と同じく、軽い足取りでこの屋上を出て行く。そして、暗い階段を降りていく。
大人たちに無垢な少女のままこれから彼女はパッケージングされていく。
馬鹿な大人たちは彼女に「素敵な」プレゼントをする気でいる。純白にくるんで幸せをあげる気でいるんだ。完璧なプラン、そう思いながら。彼女の純白はもうすでに私のもの、私の右手のものだっていうのに。純白っていうもののあまりの形骸化っぷりに笑いそうになる。
だけど、そんな馬鹿げたものに捧げさせたりしない。大人たちの用意したプレゼントの裏にはとんでもない罠があるんだ。
もう間違いだなんて言わせない。その罠に「子を思う」勘違いに気がつくといいわ。彼らのプレゼントが私の共犯者だって気がついた頃には私たちの薬指は結ばれているんだから。
だから待っていて。この両手であなたを愛せる日がまた来るまで。あんな歌を忘れられる時が来るまで。
それほど遠くないって信じてるから。