ショートショート
窓越しの横顔に聞けない声
2008年09月02日 0:09
今年。初めて私はお店を任される事になった。
小さいけれどここは私の城。隣町へと続く道に面した小さな電話屋。旅をする人が次々と行きかうこの小さな町で人々が遠くの誰かと繋がる大事な場所。
お父さんは私にこの店を任せてくれる時に「大事な仕事だから丁寧でいる事」と何度も言いつけていた。そう、私はここで誰かと誰かを繋ぐ為の時間をお世話していくのだ。
人がひとり入れるほどの小さな小屋に電話。それよりも大きな隣の小屋は三畳ほどで畳とちゃぶ台。
お祝い事のある季節ともなれば繁盛するけれど、秋が始まる頃になると頬杖をちゃぶ台に着いたまま一日を過ごしきれるほどの暇になる。それでも馴染みのお客さんがやってくるから、本当に何もないという事はない。
馴染みのお客さんたちも一時の人からここに住んでいて仕事に関わる話をしに来る人まで沢山。
夏ごろにこの町にやって来て、今じゃすっかり顔なじみになったお客さんがいた。未だに名前を尋ねてはいないけれど、仕事をしていない時に他所で会ったとしても立ち話をするほどにわたしの事を覚えてくれている。
わたしよりも幾つか年上。最初は学帽を被っているから大学生が夏の休暇を使ってこの町へ旅行をしているのかと思ったけれど、今になってもいる事を考えるとそうではないみたい。
かと言って、この町の出ではない筈。それならば、生まれて一度もここを出た事のないわたしが知っているはずだもの。
その人は毎日、急ぎ足でやってきてどこかへ電話をかけている。それほど長い時間ではないけれど、窓越しに見るその人の顔はとても嬉しそうだ。きっと会いたくて仕方のない人なのだろう。
いつの間にかわたしはその人がやってくるのが一日の一番の楽しみになっていた。いつも電話が終わると他のお客さん達がそうするのと同じように、「この後は暇で」などと言ってわたしの小さな座敷に上がってお茶を飲みながら他愛もない話をするのだ。
その人はいつも遠く向こうの山の花に目を凝らすように、力強い眼差しで本当に色々な事を話す。何を話すにも本当に楽しそうだ。
ある日、私がこの町から出た事がないと言うと、次の日には小さな鞄にアルバムも持ってきてみせて、その中の写真と一緒にふるさとやこの町に来るまでの間に通った色々な場所について話してくれた。
そして、別の日には大きなノートを持ってきてくれて、沢山のスケッチを見せてくれた。どのスケッチも画家を気取るにも十分なほどの腕前で、謙虚に絵について話すその人がわたしにはひどく不思議に思えた。
毎日、そうして若いお客さんが通う中でわたしはどんどん物知りになっていった。近所の子供達にさもそこへ行ったかのように遠くの町の海をまたぐ橋や煉瓦造りの長い道、何百、何千の人が入れる劇場など聞いただけの事をを得意げに話した。
あのお客さんが来る事がわたしは本当に楽しみに思えた。まるでわたしの日々が、電話屋の仕事があの人とちゃぶ台越しに話す事のためにあるかのように。
そして、あの人が宿へ帰る時ともなるといつもふと、空虚な時間が訪れて色が周りから奪われるかのように思えた。帰る時間が来て家への道を進むと、ふと、あの人に何かの偶然で会えないものかと願ったりもした。
食事時になっても、風呂に入っても、布団に入ってもどうしても明日はどんな話を聞かせてもらえるのだろうか。あの人は明日の茶請けは気に入ってくれるだろうかと考えてしまう。
どうせなら、どこかへかける電話もいいから、まっすぐにわたしの小屋へ来て欲しいなんて思ったりもする。窓越しに見るあの人の横顔を見ていると、その時だけでも蟻か何かになって電話の小屋に忍び込めたらいいのになんて思ったりもする。
その日の電話はやけに長かった。いつもは、節約だと言ってものの十分もすれば隣の小屋から出てくるというのに。一時間以上経っても終わる気配がない。二人ほど、お客さんが来たけれどその人たちは先客の長電話に気がつくとすぐに帰ってしまった。
なんだかいつもよりも嬉しそうな顔をしている。長い時間を笑顔で誰かに話すあの人の横顔を見ているとだんだん不安になってくる。不安に耐え切れず、淹れた事を忘れてすっかり冷めたお茶を一気に飲み干す。
胸騒ぎ。息が苦しくなる。何を話しているか知りたいのはいつもだけども、ここまでの気持ちになるのは初めてだ。
ふと、小さく息をついて受話器を置くとお客さんは複雑そうな、でも満ち足りた顔をして電話小屋から出てきた。どういうことなんだろう?
お客さんがわたしの小屋へやってきた。わたしは急いで戸を開ける。すると、中に入ろうともせずに入り口でたたずんでいた。
「今まで有難う。僕は明日、ここを経つよ。昼前のバスだ」
わたしはその言葉を聞くと、操り人形の糸を切って動けなくされたように色々な力が体中から奪われた。言った意味が分からなかったなんて思えて逃げる事ができたらどれだけよかっただろう。だけど、しっかりとわたしの耳はその言葉を捕らえてた。
お客さんはそして、多くを語らずにわたしの小さな電話屋を去っていった。その後姿にわたしはいても経っても居られずにあわてて小屋へと逃げ込んだ。
それから、わたしは暗くなったというのにそこを出る決心ができずに、お父さんが心配して迎えに来るまでそこにいることになってしまった。
わたしが電話屋をはじめて一年以上が経った。
去年の初秋のあの気持ちがなんだったのか、風が冷たくなり始めてから時々考えるようになった。今ではあの体からすべてを奪われるような気持ちはわたしのどこにもない。
そして、冬も近づいた頃、小屋で暖をとりながらお客さんを待っていると、ふと、わたしのお店の前を通る夫婦と思われる二人連れを見た。
外套を羽織り、寒さに顔をこわばらせながらそれに負けじと微笑む男の人はどこかあのお客さんに見えた。ちゃぶ台で着く頬杖のわたしはその人となんだか目があった気がして見えるともわからない所々曇った窓越しに会釈をしてみた。