ショートショート
秘密はレッスンのはじまり
2014年07月22日 23:45
小さな同居人がわたしをじっと見ている。
日が傾き始めたころに部屋に戻ってきたわたしは窓の近くから視線を感じてあちらの首を傾ける仕草を真似をしてみる。
こうしてほんの少しの間だけど、こうして「にらめっこ」ならぬ「ほほえみっこ」するのがわたしの日頃の習慣。
わたしの同居人はつい四ヶ月前に一人暮らしのこの小さなアパートにお迎えしたセキセイインコだ。よくいる青と白の子で知り合いの家で生まれて貰い手を探していたところにホームシックで悩んでいたわたしが立候補したのが一緒に住むことになったきっかけ。
バイトや夕方以降の友達との約束のない日はわたしとこの子は水入らずの時間を過ごすことにしている。
小さな命を預かるにあたって、わたしには友達や親がいるけどもこの子にはわたししかいない。だから、一緒にいる時間を大事にしていく――そう決めたからだ。
同居人は生後半年の男の子。セキセイインコというのはメスよりもオスの方が言葉を覚えやすいと聞いたことがある。何時頃から覚え始めるかというのはその子によって違うのだそうだけどもそろそろ覚え始める時期という話はよく聞くからこの頃はなるべく話しかけてあげるようにしている。
まずは定番の自分の名前。セキセイインコに限らず言葉を覚える鳥というのは飼い主とコミュニケーションを取るために言葉や物音を真似るのだとか。それであれば、まずはわたしとこの子の信頼関係は大事。そして一緒に楽しく時間を過ごしていくことが大事。
この季節には暑く感じてしまう事もあるスウェットジャケットを脱いでハンガーにかけると、窓やドアがきちんと閉じているかを確認した。大丈夫。
「さぁ、退屈だったでしょ? お姉ちゃんと遊びましょ」
そう言って、鳥かごの戸を開いた。わたしはこの子にとってお母さんには若すぎるし、友達と言ってはちょっとよそよそしい。だから姉弟くらいがいいかなとこの子をお迎えした日に思ったから言葉の上ではそうして接している。かごの中のおチビちゃんはすこし警戒するようにキョロキョロと周りを見てからトントンと飛び跳ねるように鳥かごの出口に立った。
わたしはイスに腰掛けておチビちゃんの顔を覗き込む。帰ってきた時のようにまた首を傾げてこちらを見ている。またほほえみっこ。そしてしばらくするとかごから飛び立ってわたしの勉強机の上に止まった。
インコの足に机の塗装された木は摩擦が少なすぎるのか着地した時に少しばかりバランスを崩していた。
「こらこら、あぶないでしょ!?」
わたしは少し慌てて言う。おチビちゃんは「ピ…ピピッ」と可愛い声を上げてから少しするとまるでロックか何かのライブ中継に写り込んだ観客のヘッドバンギングのように首を縦に降り始める。これは楽しいときや嬉しい時にする仕草。そうだよね、昨日からかごの中で我慢してたんだもん。かごの外に出られると嬉しいよね。
毎日のことなんだけど、おチビちゃんの様子をみていてなんだか愛おしくなって撫でようとそっと手を差し出した。
撫でさせてくれる事のほうが多いんだけど、時々逃げられたり、不機嫌そうに鳴いたりするので今日は撫でさせてくれる日であることを祈るばかり。そーっと、そっと手を伸ばす。おチビちゃんは少し首を傾けた。これはほっぺたを撫でてほしいという合図だってこの頃気づいた仕草だ。今日は撫でさせてもらえそう。
あまり早いとびっくりしてしまうからそっと手をおチビちゃんに近づける。指がほっぺたに届くとゆっくりゆっくり撫で始める。おチビちゃんは目を閉じて気持ちよさそうな表情。
この子は甘えん坊だからきっとしばらくは開放してもらえないかも。
一度、夕食を支度してから食べるまでの間はおチビちゃんは鳥かごに入ってもらった。火を使うから危ないし人間の食べ物はインコにとってはよくないものもたくさんあるから、それはあの子の安全のため。
かごに入れた後は寂しがるかと思ってはいたけど、なんだかんだでひとりで遊ぶのも楽しめてるみたい。
今は勉強を始める前に食後のお茶の時間。
この頃はお茶に凝っていて色々と買うことが多い。週末に街に出た時にあちこちで見かけるチェーンの輸入食料品店で買ったルイボスティーが今日のティーブレイクのお供。
わたしはかごの中で鏡に向かって「ピッピッ」とひとりごとを続けているおチビちゃんを眺めながら淹れたてで熱いルイボスティーを猫舌なので息で少しずつ冷ましながら飲んでいく。
今日、これから始める勉強はレポートがひとつと明日の講義の予習がいくつか。
ルイボスの香りを味わいながらとひとり遊びを無邪気にしている小さな同居人を眺めて何も考えずにいると、ふと今日の大学での光景が頭に浮かんだ。
わたし、気になる人がいるんだ。
その人はクラスメイトで、人数の少ないうちの学科だからそれほど親しくなくても接することはそれなりにある。まだ友達といえる間柄でもないのだけど仲良く慣れるきっかけがあればなって思いってる。けど、それだけ。思ってるだけ。
とりあえず、今このティーブレイクで考えて課題や予習の時間がなくなっても困るから一旦は頭から追い出さないと。
飲み干したティーカップを洗おうと立ち上がった時に鏡にひとりごとを言うのに飽きてカゴのこちら側の側面に捉まっているおチビちゃんと目が合った。
この子のお姉ちゃんである事と今ふと頭をかすめた気持ち。この二つがアンバランスに思えてなんだかおかしくなった。
「あなたにはわからないよね」
そう言ってわたしは笑う。そんなわたしを見ておチビちゃんは不思議そうに首を傾げていた。
勉強してる時はときどき、おチビちゃんに声をかけたりする。
あまりほったらかしにしてるとさすがに寂しいだろうし、わたしもずっと集中してると息切れしてしまうから休憩を兼ねてそうしてる。
レポートがちょうど終わったところ。それが終われば予習だけ。
もうそろそろ夜の10時。さすがに遅くなったかも。いつもならもう少し早い時間にそうしてあげるんだけど、おチビちゃんはもう眠る時間を過ぎている。わたしはかごにブランケットをかけてあげようと立ち上がる。
その時、携帯が鳴った。
手に取ると、そこに表示されていたのはクラスメイトの名前。それもわたしが今気になっている人。クラスの最初の飲み会で集合するために連絡先を交換してたんだ。とはいえ、電話もメールもしたことがない。これといって話題がないのと変なこと書いてしまわないか心配だから。それは友達に「考えすぎ」とは言われるんだけど。
少し焦りながら普段はそんな心配をしないのに操作を間違えないように慎重に電話に出た。応答の操作から相手の声が聞こえるまでやけに時間がかかるように思えた。
「もしもし?」
わたし馬鹿だ。声が少し上ずってる。恥ずかしい。
「――だけど、今大丈夫?」
「うん」
「今日出た課題のことなんだけど」
別に緊張するような事は何もない。それはよくわかってる。電話の要件は今日の講義で出た課題についてだ。でも、どうしてわたしにかけてくるんだろう?
恥ずかしい勘違いなのをわかってるけど、向こうもわたしのことが……? そう思ってしまいそう。大学の課題についての相談の電話なのに情けないことに気が気じゃない。でも、向こうは別に変な様子には聞こえないから、絶対わたし、勘違いしてる。本当に恥ずかしい。
「遅くにごめんね。あの先生の説明よくわからなかったんだよ」
「そっかぁ。その、わたしはたまたま似たようなことを高校時代にやったことがあったから知ってたんだけど、そうじゃなきゃ難しいよね」
「高校でやったの?」
「先生が時間余ったから脱線して課題に出されたの。その時もみんな文句すごい言ってたよ」
「それもすごくない? その先生も鬼だね……」
やだ、口数多くなってる。わたしは緊張するとどうしても口数が多くて早口になってしまう。
それはいいとして、さっきまでわたしがやってたレポートはさほど難しい物じゃなかった。これからの予習もまだ優しい。けど、今日の講義で出された課題は結構一年生には荷が重いと思う。担当している先生は厳しい人だと先輩方から聞いたことはあるけど、来週の今日にはみんなが先生が来る前に文句を言うに違いない。過去に似たような課題をやったことがあるわたしでもそう思うから、なおさらじゃないかと思う。
「ありがとね」
「ううん、役に立てたみたいでよかった」
「じゃあ、明日大学で」
「うん、明日ね」
電話が終わった。手には汗がびっしょり。携帯が水没状態にならないか心配になるくらいに。
携帯を耳から離して少し経つとわたしは自分が電話が来るまで何をしようとしているのかが思い出せなくて少し焦った。動揺しすぎ!
「わたし、やっぱり――君のこと好きなんだ……」
前に映画で「一目惚れは信じる?」という台詞を聞いたことがある。その時は意味がわからなかったけど、今なら「うん」と答えると思う。そう、これは一目惚れしてるってやつだと思う。「気になる」なんて言葉で意味を弱めようとしているけど、それって「好き」って意味じゃない。
少しわけがわからなくなってきた。わたし、十八歳の今も恋愛経験皆無。だから、正直怖いけどもっとはっきりと仲良くなりたいって気持ちが今頭のなかに見つかってしまった!
「――君が好き……」
「――クン…スキ? ピッ」
ちょっと待って。今、聞きなれてないはずなのに聞き慣れた気がする声がした。わたしは自分の向いている机のある方向から声の聞こえた反対側へ振り返る。そこにあるのは鳥かご。そもそもこの家はわたしとこの小さなインコしかいない。
「今、なんて言ったの?」
「ピッ?」
「もう一回言ってくれるかな?」
「ピッ…」
ダメだ首を傾げてる。気のせいだよね。一つ目は言葉を覚えるのは大変だから一番聞き慣れたこの子の名前になるはず。そう、一回言ったきりの言葉なんて覚えるわけない。
「――クン、スーキッ?」
また言った。わたしは今、目と耳の前で起こった出来事を記憶から反芻する。確かに言ってる。
「言葉、覚えたのね。おめでとう」
わたしは引きつりつつ笑顔を作っておチビちゃんに言う。あちらはいつもどおり首を傾げてる。わたしはまだ残った予習への気力がなくなるくらいに脱力していた。
まさか、かわいい同居人の最初の言葉が自分の気持ちの代弁だなんて、喜ぶに喜べない。誰にも話せない。
できることなら、明日には忘れてて欲しい。この子には申し訳ないけど力なくうなだれながらそう願っていた。
昨日はあれで終わりだと思っていたけど、あの子は最初の言葉を多少不明瞭とはいえ覚えたようだった。はっきり言って、どうしていいものか困り果てていた。何かの間違い、たった二回のまぐれ、それだったらどれだけよかったことか。
大学の近くに住んではいるけれど友達が訪ねてきたことはあまりない。仲の良い友達と集まる時はたいてい学食や近くのファミレスやフードコート。近くに住んでいる友達も大学からの方向はまちまち。離れたところから通っている友達もわたしの家がバス停や駅と反対方向だし。
時々その事を寂しく思うこともあるけど、昨日のことを思い返すと正直うちが友達の集まる場所じゃなくてよかったと思う。
さすがにあれは聞かれたくない。彼に片想いをしていることはごく親しい友だちには話したりしているとはいえ、飼っている鳥にその事を覚えられてるなんて恥ずかしいにも程がある。
正直言うと、今日は午前中の講義が身に入らなかった。今は三講目が休講になったのもあったのと友達との予定が合わなかったのもあって大学の中庭のベンチで時間を潰していた。
今日は適度に暖かい日で外でこうしてのんびり過ごすにはちょうどいい日。心地いい日差しの中で生協の売店で買ったサンドイッチと紙パックのミックスフルーツジュースをお供にこの中庭や渡り廊下やそれぞれの棟を行き交う人を眺めながら。
のんびり過ごすこと以上に考え事をするにはちょうどいい。
片想いとインコの余計な言葉、この二つは解決方法が思い付かないし考えれば考えるほどわたしを悩ませる。
まずは仲良くならなくちゃいけないけど、接点ってどうしたらいい?
そもそも小鳥に覚えた言葉を忘れさせるってどうしたらいい?
ため息がどうしても出てくる。こんな深い溜息なんて受験勉強で煮詰まってた頃以来じゃないかな。
「おつかれ。昨日はありがとね」
聞き覚えのある声。その声の主は昨日電話をくれたクラスメイト――わたしの目下の想い人……っていう人。
「こん…にちは。あ、その。いいの。無事、終わった?」
やっぱり動揺しすぎ。最後の一言だけは持ち直したけども。
「なんどか。二時までかかったよ。――さんは?」
「まだやってない。だって来週だから」
「そっか。俺はいつもギリギリにやるんだけどそれだと間に合わない気がしたから先にやったんだ。助かったよ。あのままだったら全く手を付けられなかった気がする」
そう言って彼は笑った。クラスの飲み会以来かな、笑ってる顔を見るの。
「そういえば、一人?」
「うん、みんなと予定あわなくて。なんとなくサンドイッチ買ってここでね」
「俺もここいいかな?」
「え、あ、うん、いいけど?」
わたしは彼の言葉に少しびっくりした。でも、落ち着いて。特に意図はないだろうから。
「俺も今日は一人なんだよ。で、生協で弁当買ってきたから」
そう言ってクラスメイトはわたしの横に座る。わたしが端っこに座ってるのもあるけど、あちらも反対側の端に座ったから少し離れてる。動揺してるの気が付かれなさそうだし少しは落ち着いていられそうだし助かったかも。
彼は袋からお弁当をだして食べ始めて、わたしも話しかけられてから中断してた昼食を再開した。
そして、どちらともなく自然と始まったのは他愛もない話。飲み会では席が離れてたし、普段から挨拶するくらいだからこんな風に話すのははじめてかも。そんな間柄だから話題は自己紹介のディテール部分というところ。でも、なんか楽しい。
「そういえばさ、この間――さんと話してるのがちらっと聞こえたんだけどペット飼ってるんだって?」
「ああ、うん、セキセイインコをね」
「しゃべるやつ?」
「そう」
「どんな感じなの?」
少しだけ「しゃべるやつ」という言葉にビクつきながらも、いや、それを誤魔化すためにうちのおチビちゃんについて話し始めた。
頭が白で体が青。ほっぺたをなでられるのが好きなこと。テーブルの上にいる時は物を下に落とすのが好きなこと。大好物が粟穂ってこと。思いつく限り色々と。
「なんか、すごい楽しそう。鳥が好きなんだね」
「鳥は感情豊かだから。一緒に暮らしてて飽きないよ」
「しゃべる鳥だって言ってたけど、なんかしゃべるの?」
わたしはその質問に少し焦った。そう、彼がくるまでずっと考えてた悩み事がうちのインコの話す言葉だから。
「えっと、まだ小さいからこれからかな」
昨日の電話のように声が上ずらないように「慎重に」と自分に言い聞かせながらわたしは答えた。もちろん答えは嘘。本当のことなんて言えるわけがない。言ったら引かれるのは確実。
どうしよう、ドキドキしてる。まったく、あの子さえ余計な言葉を覚えなかったらこんなことにならずにすんだのに!
「名前とかが多いのかな?」
「……だと思う、最初は。一番聞く言葉だろうし」
「なんかさ、前にネットで見たんだけど昔話とか歌とか覚えてるのもいるんだよね」
「そういうの見たことある」
「今度、――さんのインコに会わせてよ」
「え?」
「言葉を覚えたら、でいいから。実は動物好きなんだ」
「そうなんだ」
そうして話している時に三講目が終わるチャイムが聞こえてきた。ずいぶん長く話してたみたいだ。わたしたちは四講目にそれぞれ違う講義があるので挨拶を交わしてその場を後にした。
最後の最後に心臓の悪いことを言うもんだから次の講義のある二号棟の中を歩きながら一生懸命呼吸を整える。
あれは社交辞令なんだろうか。そうでないなら、本当に対策を考えないと。
そして、あの場所での二時間少しの時間、気が気じゃなくて落ち着かなかったけど今思うと楽しい時間だった気がする。
昨日今日と思ってもみなかったようなことが起こりすぎて帰宅する頃にはすっかり疲れ果てていた。
四講目はなんだか落ち着かなくて半分くらい先生の話を聞いていなかったから誰かにノートを借りないと。グループワークがあったり少人数クラス分けがなくて本当によかった。座学じゃなければとても今日の気分で乗りきれなかった。そこは少し運がよかったと思う。
インコの件はともかく、昼休みのことは運がいい事ではあるかな……。
「――クン、ス、キ」
アパートについてインコへの挨拶もそこそこにベッドに腰掛けてぐったりしているわたしの耳に昨日からの悩みの種が飛び込んできた。
「もう!」
わたしは口をへの字にしてインコのほうを見た。昨日まで無邪気にかわいがってたけど、今日はなんだかそういう気分になれなかったから。でも、かごの中であの子は昨日までと全く同じようにピヨピヨひとりごとを言ったりかごの中の輪っかや鏡いついたそろばんみたいな串刺しボールで遊んだりしている。
「あなたはいつもどおりなんだもんね。ごめんね」
遊びに夢中なおチビちゃんにわたしはひとりごとを言った。そう、悩みの種だけどこの子はかわいいかわいい弟なんだ。ほんの少しだけど邪険な扱いを心のなかでしていた事を少し反省した。
気を取り直して、たまたま買った本の付録についてきたボサノヴァのCDをパソコンに入れていたのを再生した。今日はバイトもないのと例の課題も来週までだし少し気持ちを楽にしようとダラダラと過ごそうかと思う。昨日みたいにルイボスティーを飲もうと思ったけど、それも億劫だからもう少しダラダラしていよう。
「ピッ! ピッ、ピッピピッ!」
おチビちゃんは規則的な鳴き声をあげた。スピーカーから聞こえてくる音楽を真似してるみたい。かごの時々端から端まで空中を這わせた棒の上を行ったり来たりして時々、首を振りながらずいぶんと昔にブラジルで録音された音楽の真似になってない真似をしている。
セキセイインコや他の言葉を話す鳥達で歌を覚える子はたくさんいる。この間、動画サイトで見たオカメインコはいろんな曲をところどころオリジナルメロディに間違えながら歌っていたりしていた。
この子もこうやって覚えていって歌うようになるかもしれない。それにはスピーカーから流れる音楽じゃなくてわたしが歌ってあげれば覚えやすいのかも。
そうすれば楽しい……あ、もしかしたらこれは名案かも。
わたしは今頭をよぎったアイディアを捕まえようと慌ててベッドの上に置きっぱなしにした携帯を取った。連絡先一覧から探し出した実家の電話番号へ通話を開始する。
「もしもし、お母さん?」
数週間ぶりに聞く聞き慣れた母の声だ。わたしは都合を確認すると話を続けた。
「わたしの使ってたキーボードってまだ残ってる? あれ、こっちに送ってもらえないかなと思って。置くところ? 大丈夫、そんなに大きいものじゃないでしょ。ピアノ送ってって言ってるんじゃないから。うん、お願いどうしても必要なの」
高校時代にバンドをやっていた先輩に憧れてお金を貯めて買ったキーボードがあったからそれを送ってもらおうと思った。ピアノを習っていたことがあって電子ピアノを他に持っていて本当はあっちのほうが良かったんだけど、大きくてわたしの小さなアパートに置けないからそっちならちょうどいいと思って。
母は「勉強はちゃんとやってるの?」など心配そうにキーボードを送るのを渋っているけど、電話口で「お願い」という言葉を繰り返しているうちになんとか折れてくれた。理由を色々聞かれなくてよかった。
こういう時に保育の学校に行った友達が少しうらやましくなる。わたしの行ってる学科じゃ音楽ができる必要がないわけだから説得が必要になるわけで。ピアノに比べたら小さいとはいえそれなりに送料がかかるし、親元から離れて勉強せずに遊んでるんじゃないかと心配されるだろうし。
それに、そもそもわたしがキーボードが必要になった理由なんて友達でも言いたくないのにそれが親ならなおさらだ。
その後、いくつか別件でのお小言を言われてからなんとか平和に母との通話を終えた。今日二度目、昨日から数えたら三度目の心臓に悪い出来事。ただ、前二つのインパクトが大きかったからまだまし、とは思えた。
母との通話の間も流れていたボサノバの曲達はとっくに終わっていて、ふと気がすくとおチビちゃんの鳴き声が時々聞こえる程度に部屋は静かになっていた。なんとなく寂しくなってわたしはうろ覚えに口笛であちこちでカヴァーをされている有名なボサノヴァの曲を吹く。曲の途中からおチビちゃんはわたしの口笛についてまだ到底歌とは言えない鳴き声をあげた。
わたしは少しだけかがみこんで鳥かごの中のおチビちゃんの目をじっと見た。おチビちゃんはいつもどおり首を傾げる。
「もうすぐ、キーボードが届くからそしたら歌のレッスンをするからね。それと……」
携帯に空き時間にダウンロードした著作権切れの童話を表示した。
「お話とかも覚えてもらおうかな?」
おチビちゃんはこちらの言ってることがわかっているのかいないのか首をふって楽しそうに棒の上を行ったり来たりのダンスをはじめる。わたしはなんだかその様子がおかしくて吹き出してしまった。
「あなたにはたくさん覚えてもらう事があるから楽しみにしててね。がんばってもらわなきゃ」
――できれば、昨日覚えてしまった言葉を忘れてくれるように。そう心のなかで付け足した。
本音を言うと今日はこの子のおかげで昼休みから三講目までの間の会話が進んだことがあるから感謝している部分もある。まだ挨拶を交わすクラスメイト程度の間柄から先に進む事、この片想いをきちんと形にすること、この二つは先の見ない課題ではあるけど、この子に「がんばってもらう」と言った以上わたしもがんばらないとなぁとは思う。
大学生活と一人暮らし数ヶ月目で生活になれたばかりだけど、そこで目標というか「がんばるべきもの」が二つ見つかったのはこれから先の生活を楽しくするにはいいことかもしれない。
思いついてから一気に準備をしたけど、なんだかこれからの出来事が楽しみに思えて昨日からの疲れや困り事がすっかりなくなっている。
まずは今の状況を楽しんでいこう、頭の中はとてもシンプルに前向きになっていた。
「わたしもがんばるからね」
おチビちゃんはウインクしながらそう言うわたしにやっぱりいつもどおり首をかしげて不思議がっていた。