ショートショート

大好きな宝石箱の味

2009年03月10日 0:27

 商店街の終わりを少しだけ過ぎたところ。わたしは一歩一歩、歩調を速めながら少しだけくたびれたトートバッグを肩にかけて歩いている。

 ここを通るたびにわたしの鼻には本当にたくさんの誘惑がやってくる。焼き鳥屋のおじさんはいつもいつもわたしに声をかける。確かにわたしは常連客の一人娘。小さい頃は何度も何度も連れて行かれた。だけど、今のわたしに焼き鳥はすこしばかり野暮ったい。

 それにお肉屋さんのコロッケもベーカリーのクロワッサンもいつもはついつい引き寄せられるけど今日ばかりはガマンしなくちゃ。

 こうして向かっているところは駅から離れたパティスリー。誰もそんなこと知らないだろうけど、わたしにとっては宝石箱のような場所。ひそかに前を通るたびにウキウキしたり背筋を伸ばしたり。

 この小さな街でひっそりとやっているこのお店にわたしは勝手な事だけど何よりも親しみを向けている。

 ちょっとした気持ちの変化がやってくるたびにわたしはここに駆け込んでショーケースに並ぶ愛らしいケーキから「これだ」と思えるものを連れ出して甘くて時々酸っぱかったり苦かったりするひと時の旅に案内させてきたんだ。

 そして、そうしてこの店の――これはわたしが勝手に思っているだけなんだけど――ときどきの常連になる前から実は大好きだったりする。

​​

 このパティスリーを知ったのは単なる偶然だった。

 わたしがまだ中学生だった頃にこの店を知った。あの頃、わたしの一番中のよかった友達がこの近くに住んでいて、よくこのあたりを訪ねて来ていた。

 あの重要な発見はあの頃に「最悪な出来事」だと思えたことがわたしに降りかかってきた時で、その痛みから逃げるように友達の所に泊まった日だった。

 今になれば笑い話とも言えるけど、人生最初の失恋でそれこそわたしにとっては世界が終わったかのような気持ちになっていた。

 友達の親御さんが寝静まった頃にわたしたちはコンビニにパンやチョコレートや眠気覚ましのコーヒーを買いに出かけた。なんとなくふらふらとカゴに詰め込んでそれをなけなしの小遣いと引き換えにビニール袋へと移し変えるとそそくさと外へと出た。

 まだ空は暗い。その頃はどこからが夜でどこからが朝なのかは知らなかった。そんな時代のわたしにはとても不思議な光景が友達の家への帰り道に姿を現した。

 それは窓越しの朝。コンビニの引き伸ばして境を隠したようなのとは違う、窓の向こうでやってきたばかりの朝を全身で受け止めるように腕を振るう人影だった。

 それは小さなできたばかりのお店のパティシエ。お菓子の職人だ。

 お菓子屋さんは沢山ある。そして、ショーケースに並ぶお菓子を見たことなんてあの頃だって数え切れないほど。

 だけど、そのお菓子の生まれる場所なんて見たことはなかった。

 気が付くと友達と一緒にいることも、お小遣いを費やした重たい荷物もすっかり忘れてその薄い黄色の塊が素敵な芸術に生まれ変わる魔法に釘付けになっていた。

 パティシエのお兄さんはとっても力強く、そしてその目はどこか鋭く、でも瞳は優しげで、なんだかついさっきまで世界の終わりと思った事がなんだかとてもちっぽけに見えた。

 そうだ、わたしがどんなにどん底でもいろんなものはいつもどおり動いていく。こうして、沢山のお菓子が生まれていく。

 なんだかその光景にわたしは釘付けになっていた。

 友達はお菓子が買い足りないのかとからかったりしていたけど、わたしは窓の向こうの誰よりも早い朝に感じた気持ちをどうやって表していいのか分からずになんとなく笑いながら置いていかれて出来た距離を埋めて見る。

 そして、言われたんだ「やっと笑った」って。

 そう言われた時に、なんとなく浮かんだものは見たこともないのに想像したあのお店のお菓子の味だった。

​​

 確実にあのパティシエ氏はわたしの事を知らない。知っているのは今まで何度か交代した売り場に立つお姉さんだったりおばさんだったりする女性達だ。

 あれからときどきだけど明け方に散歩する習慣ができたりもして、窓越しにやっぱり他所よりも早い朝を眺めていたりもするけれど、きっとあの人は自分の姿を見に散歩する女の子の存在なんて知らないだろう。

 だけど、売り子を通してわたしはお金をあちらはお菓子を通して無自覚なコミュニケーションは存在している。それで十分だし、それが一番。

 ファンってそういうものなんだと思う。

 今日はきっとこうして自分の為だけにお菓子を買う最後の日になるだろう。今日のわたしと明日のわたしは違うところにいるのだから。

 だから、あることにすら気が付かないコミュニケーションに明日を祝って欲しいと思う。

 だけど、その言葉はちょっと足りない。本当のところは怖がるわたしに背中を押して欲しい。これが正直な気持ち。

 早めすぎた歩調を緩めてわたしはそっとドアを開けた。今どき自動ドアですらない。だけど、きっとこれはこの宝石箱のようなパティスリーの演出なんだろうと思う。そして、そこで鳴るウィンドチャイムの踊るような歌も。

「いらっしゃい」

 声に違和感を感じてまっすぐ前を見るとわたしは言葉を失った。

 この宝石箱のわたしにとっての魔法使いであるパティシエ氏本人だった。

「あ、あの、いつもいらっしゃる女性の方は?」

 思わず出た言葉。きっと変だろう。いきなり来た客が言うことじゃない。

「今は休憩中でしてね。あぁ、僕は店主でこうしてたまに代わりに出てるわけでして」

 照れくさそうに言うパティシエ氏。初めて聞いたけどとっても優しげな声。わたしが始めてみたときにはお兄さんだったけれど、今ではすっかりおじさんだ。声は年をとってもそれほど変わらないというからきっと初めて見たあの日もこの声だったんだろう。

「いつもありがとうございます。ようやくお会いできましたね」

「え……?」

 意外な言葉をパティシエ氏は口にした。

「時々なんですけどね。売り場が奥から見えて、お客さんの顔を覚えるようにしてまして。あなたはどうしても僕が売り場にいるときにいらっしゃらなかった。中で仕事をしながらすれ違いに妙なもどかしさを感じていたものでしたよ」

 笑いながら言う。顔を赤くしながら。きっとすごく照れ屋なんだろう。

「あ、これは失礼。変なオヤジだと思われますね。どうぞ、お好きなものをお選びください」

 パティシエ氏はそう言うとそれまで被っていた帽子を脱いで手に持った。わたしは照れくささが伝染したみたいにはにかみながらそっとショーケースに近づく。

「あの、もしよかったらお勧めしていただく事はできますか?」

 わたしはふとそんな言葉を発した。そうだ、せっかく会えたんだから聞いてみたい。

「あ、はい。それは、僕でよければ」

「何か、落ち着ける味だといいんですけど……」

「なるほど」

 パティシエ氏は目を閉じてほんの少しの間、何かを頭に描いたようだった。

「これはいかがでしょう? きっと素敵なひと時を差し上げられる味ではないかと」

 そう言って選んでくれたのはふたつのベニエ。粉砂糖がかかったものとココアがかかったもの。

 そういえばベニエは食べた事がない。四角いまるで枕のようなドーナツ。

「いかがでしょうか? このベニエ、ちょっと仕掛けがしてあるんですが、それは食べるまでの内緒です」

「お勧めいただいたんです。それにします」

「かしこまりました」

 そういって、ふたつのベニエをパティシエ氏は季節の花が描かれた紙袋に入れる。今は桜。淡い紅色のやさいい絵柄。

 そこからは人が違えどいつもどおり、お金を払って商品を受け取る。別の店でもそうであるように。

「ぜひ、またいらしてください」

 パティシエ氏はやっぱり照れくさそうに言う。本当は不器用な人なんだろうな。さっきのわたしの無茶なお願いにキザっぽく振舞おうとしていたみたいだけど、なんだかそれには失敗しているみたいだったわけだし。

「それは少し、後になってしまうかもしれないけど……」

 わたしは体を今抱えてる不安が突き抜けてちょっと力なく答えてしまうと、パティシエ氏は目を見開いた。

「わたし、結婚するんです。この街にはいるけれど、遠くなってしまうし、生活も変わるから……」

「そうでしたか。それはおめでとうございます。いつか、またいらっしゃるのを待っていますよ。これでも、人の顔を覚えるのには自身がありますから」

「はい。落ち着いたら来ます。彼もきっと気に入ってくれるだろうし。あと、わたしずっとファンだったんです。ここのお菓子の――」

 ――そして、あなたの。

 それはさすがに恥ずかしくて言えなかった。だけど、なんとなくわかってもらえるといい。パティシエ氏はわたしにとって一年中のサンタクロースだってこと。

「それはありがとうございます」

「次にはもっとおいしい作品をお願いしますね」

「もちろんです。お二人でいらっしゃる時には飛び切りのケーキをお届けしましょう」

「残念。次はきっと三人です」

 そう言ってわたしはそっとお腹に手を置く。パティシエ氏は顔を窓越しに見た厨房での厳しそうな姿を忘れさせるほどほころばせる。

「そうですか。それなら、手は抜けませんな。親子二代でファンになっていただかないと」

 そう言うと腕を組んで頷く。必死に照れ隠しをしているようだった。

「それじゃあ、わたしはこれで」

「では、次のご来店お待ちしております」

「はい」

 短い、よくありがちな挨拶と一緒にわたしはベニエの入った紙袋を手に店を後にした。

 まだベニエは暖かい。今すぐ食べてしまいたいけれどこれは待っていよう。違うベニエが二つある。それならこれから彼に会いに行こう。

 明日からは家族だから、恋人としての最後の日を過ごす為に。

 なんだか幸せな気持ちがどんどん湧き出てくるようだ。そういえば、あの店に行くまではこれから来る日々が、個人的にも社会的にも変わってしまう彼との関係に不安を感じていたんだ。

 こんなに気持ちが変わるなんてやっぱり凄い。やっぱりパティシエ氏は魔法使いなんだろう。きっと、三人で行く時にはあの店との長い付き合いがまた始まるに違いない。

 さぁ、急ごう、まず考えるべきはベニエが暖かいうちに彼の元へたどり着く事なんだから。

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