短編小説
夏時間とすすきの花
2009年09月12日 1:45
1
Side A
すすきの花が咲くのを見てわたしはすっかり古くなったテラスのテーブルで溜息をついた。
空気が夏の強いものから秋の包むようなものへと変化を始めているの感じる。
苺の香りが付けられた紅茶はそろそろ似合わなくなってきている。その茶葉を入れた瓶のとなりにある薔薇の花束を加えた紅茶もそうだ。
お母さんにねだるのなら何がいいだろう。あのお茶屋に行くのはわたしのささやかな楽しみだ。
だから、店に行くまでは何にするか決めないほうがいい。そうすれば少しでも長くあの店にいられるわけだから。
去年の秋に店に並べられた茶葉から候補を無計画に並べながらわたしは数日後に来るお茶屋での心躍る時間を待ち遠しく感じた。候補は考えているうちに秋の茶葉全てへと増えてしまって、気がつくと「あって欲しい」と感じるられる香りを考えるに至っていた。
そう、茶葉の種類は多ければ多いほどいい。そうすればより長い時間迷うことができるから。
さて、今週のうちであることは前から決めていたけれど、行くならばいつがいいだろう? やはり土曜日の午後に学校の帰りだろうか。わたしの気持ちにとってはそれがいいはず。だけど、土曜日にわたしがどんな顔をしているのかが今からでも予想などできないから、お店には店先に立つあの人にはそれでいいのかは複雑な気持ちだ。
喜びたい気持ちと恐れる、拒む気持ちが入り乱れていてどちらに転ぶかなんてわからない。
日曜日に果たさなければならない約束がわたしにどんな気持ちに導くのかそれがわからないからだ。
だけど、この秋に気に入っていたロングスカートを履くことが出来ないのははっきりしている。子供のころから鏡の前でしぐさや髪形を気にしていたあの朝のひと時も忘れなければいけないんだ。
本当ならば安心すべき事なのにそれはとても不安にさせる。まるで濃く煮だしたダージリンにミルクを注ぐような気持ち。わたしのなかにはふたつの不安が混ざり合っている。ひとつは毎朝、自分の声やシルエットを確認してその日最初に会う人の目を疑う不安。もうひとつはその不安が消えた後の生活が今のわたしのものとはかけ離れているという不安。
お互いに矛盾しているからこそ混ざり合って、どう捉えるかを見誤らせる怖くて心地の良い感覚が秋の入口の不安定な日差しで照らされるわたしの体を包んでいる。
まだ白いペンキがところどころ剥がれた低い柵の向こうにある居間の窓に目を向けた。肩まで伸ばした髪に青いガラス細工で飾られたバレッタを飾り、薄いピンクのフレアスカートと紫のカーディガンに身を包んだわたしの姿が映る。
物心が着いたときから鏡に映る自分を見ると頬を緩めてしまう。それは小さなころから毎朝、その日の服を決めるたびにお母さんが「かわいい」と言ってくれるから。今、こうして微笑んでいるのも今朝、いつもと同じように「かわいい」と言われたから。
だけど、これがわたしの正解というわけではない。わたしの正解は日曜日から先。
その日に会う誰かに会うまで身を守る為の嘘が今、その誰かの為の日々の為の正解。それまでの一週間の中にある今日はわたしにとっても季節の変わり目だ。
Side B
学業の合間を縫って始めた紅茶店での仕事。中途半端なこの時期にはどうしても暇になるのであたしはいつにも増して静かな店の中を掃除しながら静寂の中に隠れた細やかな音たちに耳を澄ませている。
ここに居るのはあたしが先生と呼ぶ店主とその奥さん。店で客にお茶を提供するのは先生、家でのひと時の為の茶葉を提供するのは奥さんの仕事。あたしがする事は先生が忙しければお茶を売り、奥さんが急がしければ茶葉を売る。つまりはふたりのアシスタントだ。
ジーンズに飾り気のないカットソー。その上に着るエプロンは缶バッヂやアップリケで控えめに飾られている。食べ物を提供する場だからこそあまり飾るのがいいとは思えない。だけど、それで終わらせるのではあまりに寂しいから加えた女の子としてのお遊び。とはいえ、それがどこか無骨なのはあたしの性格によるものだろう。
あの子みたいにできればいいけど、照れくさいから難しいんだろうな。
あたしは客のいない店の中で使い込まれた姿が寂しさを思い起こさせる古びた椅子をテーブルから斜めに向けて腰かけた。足を開き、膝に頬杖をついて。
窓辺とテーブルに置かれたポプリの香りがかすかにする。空気は澄んでいてやわらかい。
あの子ならこの空間にきれいに収まってまるで絵画のようにその姿であらゆる人を魅了するにちがいない。
あの子――この店の常連客だ。あたしと同じくらいの年のころで、いつもラフな格好、ラフな態度を隠さないあたしからすれば同じ女であることが申し訳なくなるような柔らかい雰囲気の女の子。
しぐさの一つ一つ、身につけるものの一つ一つをきちんと注意を払っているのがわかる。かつて読まれていた少女雑誌のページを飾った女の子たちにどこか似ている。彼女たちの総称で読んであげたくなるようなそんな洗練されてだけど危ういほど不安定な、まさに「少女」という言葉を論文か何かで定義づけするならサンプルとして的確であると言わざるを得ないような、そんな女の子だ。
いつもならば「女ながらにかわいいなと見惚れてしまう」程度の言葉で済ませてしまう所なのにこうして仕事の隙間の立ち止まりで考えてしまうのは次の日曜日に両親に作られた「用事」のせいだろう。
小さなころから聞かされてきてこれまで深く考えてはこなかったものの、それでもすぐそこまで近づいてくるとなるとどうしても意識してしまうものだ。
重たく考えているわけではない。もちろん、本来なら重たい話ではあるんだけど。両親だって「友達が増えるくらいに考えればいい」というんだから、本人たるあたしもそのつもりでいさせてもらうつもり。
だけども、相手のいることであることには変わりがない。
それが今のあたしに相応しいのか、相手はこんなあたしに会ってがっかりしないのか。小さなころから聞かされてきたというのは向こうも一緒だけど、期待されていたらこんなあたしじゃ申し訳ないとしか言えない。
まぁ、悩んだってしょうがない。それよりも適切な悩みを持つほうがいいに決まってる。
何を着ていくかの方が重要だ。こうなるとやっぱりあの子と自分を比べてしまい悲しくなるけど。
候補として考えているのは袖と襟にレースをあしらったワンピース。薄いラベンダー色がこの季節にはちょうどいい。ただ、偶然あの子が同じものを着ているのを見てしまって「叶わない」という抵抗に負けてしまいそうなのが残念だ。手本としてはいいわけだけど。
まぁ、相手にはきっとそんな比較対象なんてないわけだからいいのかもしれない。
そして、この瞬間だけは安心してもいいのかもしれない。
お客が来たのだから、考えるべきは仕事のこととしないといけない時間がやってきたからだ。
あたしは立ち上がり椅子をなおし、お客がいつも長い時間テーブルを占拠する茶飲み友達三人組なのだから店の奥にいる先生に声をかけた。
悩みはよそに置いておくべき時が来た。
日曜日だ。
あらかじめ決めていた通りあたしはラベンダー色のワンピースを着ることにした。父と母はというとあたしが約束の場所に現れるなり、過剰とも言いたくなるほど嬉しそうにあたしを迎え入れた。
ここはあたしの両親が所有する小高い丘の庭園。ここに来るのは二年ぶりくらいになる。小さな頃はよくここで遊んだ。だから、この二年間で変えられていなければあたしは隅々まで迷わずに戸惑わずに庭園のどこにだって行くことが出来る。藪の中の隠れた広間といった両親はもちろん雇われて長い管理人のおじさんですら知らないであろう場所も簡単にだ。
だけど、今日はどんなに庭園ではしゃぎいまわりたくてもそうするつもりはない。今日着ているのはあたしの住む町の洋品店で買ってから大切にしてきたワンピースだ。汚したり傷めたりはしたくない。それに今日、あたしがここにいる理由を考えれば不適切な行動だ。いくら、あたしが望んだわけじゃない、与えられたものだからたと言っても、心の片隅では期待したり楽しみにしてきた部分もあるわけだから今日という日を台無しにするわけにいかない。
だから、あたしはここに着いてからというもの借りてきた猫のようにそわそわしながら、何度も鏡を見て髪形や襟もとの乱れを気にしたり、笑顔を練習したりしている。
正直言うと緊張している。普通の子なら無理強いされたと言いながら両親を嫌ったり、今日一日ふくれっ面しているかもしれない。小さなころからの刷り込み効果なのかあたしにはそんな気持ちは不思議とない。それよりも、今日、形はどうあれ友達ができるって事が楽しみという気持ちが勝ってる。
あたしにとって覚えている限りで初めての男の子の友達だ。隣町の寄宿学校に通ってからというもの箱入り娘として育ったあたしは特に意識することなく男の子という存在を遠く感じて生きてきた。こんな風に軽く考えるのもおかしな話だけど、自分ときっと大きく違うであろう年の近い男の子と友達になることであたしの見ることの出来る世界が広がるような予感がしている。すごく胸の奥で何かに備えるように期待の泉がわき出ていくようだ。
今日はあたしのお見合いの日。どうやらあたしの両親とあちらの家の人たちであたし達が生まれる前に取り決めていたらしい。
相手の男の子がどんな子なのかもあたしは知らされていない。おそらくあちらもそうだろう。
この日はあたしが小さなころからずっと教えられてきて、あたしは特別疑問というものを持たずにこの日へと向かう毎日を過ごしてきた。とはいえ、こうしてその日になってみると気にもせずに過ごしてきたという自覚に対して、これまで色々と相手がどんな人か空想してきたんだという事を思い知らされる。
それが何を意味するのかは正直なところあたしにはわからない。その先に持っているのは、今日会うまだ見ぬ男の子への気持がどんなものなのかは見当もつかない。
だけど、初恋ですらまだというあたしにも、恋におちるというのはそんなに簡単なことではないということは分かっている。元来の能天気さが今までにない友達との出会いを待ちわびているという感情、今あるのはそれだけ。
だから、とりあえずは双方の親たちが気をまわしてくれたのか場所だと時間だけは指定してほったらかしというのいわゆるブラインドデートっていうやつにこれから向かう。
今持っているものはポーチの中の小さな手鏡とそれを見て練習した笑顔、そして、いまだに決まらない「一言目の候補」たちだけだ。
2
Side A
今日、服を着替える時、わたしは少しだけ躊躇した。
前から知っていた事ではあるけど、それでも、ボタンを一つ一つ閉めるときに感じた違和感は昼を回ろうとした今でもはっきりとしていて消えそうにはとても思えない。
町の外へ出かけるのは初めてのこと。電車に乗って、海沿いの隣町へやって来た。わたしはこの植物園でベンチに腰掛けながら耳を澄ましている。
波の音というものはとても気持ちがいい。映画の中で、ラジオから、そういう形では聞いたことはあるけどこうして自分の耳で聞くのは初めてのこと。目を閉じるとなんだか心の中でシャワーを浴びたばかりのような涼しさを感じる。ここは見た目こそうちの庭とそう変わり映えはしないけれど、目を閉じるとその違いは大きい。
ここは小さな丘の上にあって丘のすぐ近くに海岸がある。だから、ここに来る風は少しだけ花の香りを従えた潮風だ。
目をあけるとわたしの顔は空の方を向いていた。木漏れ日、かすかに見える濃い青の空。素敵な時間。
慣れない服と初めての場所、臆病な私を緊張させるには十分なものがそろってはいるけど、それでもこの場所で静かに待つ時間はわたしの心をそっとやさしくほぐしてくれる。
今のわたしは昨日までのわたしじゃない。今日からが本当のわたし、物心ついた頃からの嘘は卒業してわたしは着る服を変えた。
伸びた髪を切るのが、時間の不都合の重なりで先に延びたのがせめてもの救いだけど、変わらなければいけないということがずっと前から決まっていた今日はある面では安心できたけどずっと怖く感じていた。
今日、ここに来る前に玄関の姿見で見た自分の姿はまるで見知らぬ誰かのようだった。そう、わたしのこれまでの時間にはとても遠く感じられた人たちと今日、わたしは同類になったんだ。元々、生まれついてのことだけど、これまでは違う「ことにされてきた」からこの距離は本当でなくても大きい。
わたしが今日、ここに来たのはある人と会うため。その人がどんな人なのかわたしは知らない。だけど、今日ここに来るのはその人だけだという話だ。それなら間違う心配もない。
わたしは音と光の心地の良い空気に揺れてほぐれていた心を少しだけ緊張の方への引き寄せた。
今日、これから会う人のことを考える為だ。どんな人なのかわたしは知らない。だけど、今日、ここでわたしがその人に会うのは私が生まれる前から決まっていたんだそうだ。
そもそも、物心ついてから今日までの間の嘘はそのためなんだ。わたしが間違った方向に進まないようにするためのもの。その嘘が終わった今、わたしはどういう顔をしていればいいんだろう。それが分からないから少し怖い。
これから会うその人はわたしの事を知らない。わたしがその人がどんな人なのかを知らないように。だけど、初めて会うその人がわたしの事をどう思うのか正直言ってそれは怖い。「おかしい」って思われないかどうか。
嘘の為にあるべき姿、わたしと言う人間が本来とるべき仕草や行動の類を知らずに今日を迎えてしまった。それを相手が許容してくれるかどうか、不安がどんどん募っていく。 だけど、今日までの間、空想してきた事がこうして思い出した不安にまるで日陰に鏡で日差しを誘導するように前向きさを与えてくれる。
どんな人なんだろう。わたしより年上だという話は聞いている。だけど、それ以上は知らない。知らないけれど、素敵な人だという予感はある。わたしの嘘はその空想の反映。だから毎日のお母さんの「かわいい」の一言を求めていた。鏡にうつる自分は自分じゃない。これから会う。ずっと待ち焦がれた今日会うその人の姿だって。
胸に手をあてて考えてみる。うまく振舞える自信こそないけど、こうして会うことが決められていたんだからきっとわたしを理解してくれる。大丈夫。今は信じるだけ。
レンガを敷き詰められた通路にリズミカルな足音が聞こえてきた。今日、ここに来るのは植物園の持ち主の子であるその人だけ。だから、来たんだそうだ。
どんな人だろう。気になる、だけど、近づいてくるのを感じながらもどうしてもそちらを見ることはできなかった。わたしの目はまだ空を見ている。
Side B
小さなころからこのレンガの道が好きだった。前に来た時はもう少し広いと思っていたけど、あたしが大きくなったせいかそれとも思い出は脚色されるせいなのか、どこか狭くて頼りない道に思えてくる。
そもそもこうして相手の顔も知らずに会わせるのならあらかじめ場所くらい指定しておいて欲しいものだ。
相手の親御さんときっと浜辺のカフェでお茶しているであろう両親もそうとうに意地悪だと思う。まぁ、それは向こうも思っているだろうし、そもそもこの庭園はそれほど大きいわけじゃない。初めて来るのならレンガの道の範囲から出たりはしないだろう。
歩いていたら思ったよりも早く探し物は見つかった。茂みと高木に覆われたベンチのある場所だ。茂みのせいで気付かない人も多いだろうけど、ここは崖の近く。茂みの向こうには頑丈な柵が作られている。茂みの草や低木は深く生い茂っているのもあってその向こうには誰も行こうと思わないだろう。だけど、それが崖の下の海に近い場所であることははっきりとわかるはず。波の音がはっきりと聞こえるから。波の森――あたしはそう呼んでいる。
その波の森の人影は木漏れ日と茂みの影のイタズラではっきりと見えない。ただ分かるのはあたしよりも少しばかり背は小さいであろうこと。町ですれ違う同い年の男の子たちとは違い、幼さの感じるシルエットであること。
相手はあたしより年下だそうだ。ふと、そんな事を思い出した。そんな事を思い出すとこのお見合いがお見合い未満のものだと思えた。お見合いっていうのは結婚の為に行うもの――だけど、あたしはそれを行うにはまだ幼い。そして、相手はそれよりもさらに幼い。
そう考えると本当に「新しく友達ができると思って」ていうのが適切に思えてくる。大人たちの下らない遊びみたいだ。「わたし、あなたのお嫁さんになるの」っていう子供の約束を大人が代行するような。
なんだか笑えてきた。でも、そう考えるとあの人影の男の子に親近感も沸く。
顔もまだ分からないのにいい友達になれそうに思えた。
ただし、男の子と話すことというこれまでにないハードルの高さが見えないという懸念だけはどうしても付いてまわるだろうけど。
彼は上を向いているようだ。元からなのかお母さんか誰かの口ぞえでそうしてるのか、緩やかにウェーブのかかった男の子には長い髪を結わえて空を眺めている。
そのシルエットはどこか昔の貴族の子息を感じさせる。上品な仕草。
あたしは一歩一歩足を進め、あたしが波の森の範囲として認める範囲、電灯への架け替えがなされずに置き去りにされた古いガス灯を超えたところへ足を踏み入れた。
ここまで来るとこの奇妙な待ち合わせの相手の顔がはっきり見える。
そう。はっきりと。
でも、どうしたことだろう。そこに居たのは「あの子」だ。あたしが手伝っている紅茶屋に時折訪れる女の子そっくりな男の子。そういえばあの子もゆるいウェーブのかかった髪をしていた。
似ているすごく似ている。あの子の弟だろうか。でも、相手は一人っ子だと聞いている。
向こうはまだこちらに気が付いていないようだ。まだ空を見ている。ここから見えるのは木の枝葉を通した空。それに夢中なのだろうか。
それならこちらから声をかけるべきだ。
あたしは息を吸い込んでとてもシンプルに一言告げた。
Side A
「こんにちは。いえ、はじめましてかしら?」
足あとはある程度まで近づいて止まると今度はそんな声が聞こえてきた。
聞き覚えのある声。でも、どこでだろう? 会ったことのある人のはずはない。
わたしは空を仰いでいた顔を声の方へと向けた。
すると、わたしは驚いて息の吸い方を忘れてしまったように呼吸を止めた。
「こ、こんにちは」
小さく斜めに体を傾けて挨拶をした。
ごく当たり前だと思ってはいたけど、その直後に気が付いた。これは「お嬢さん」の仕草だ。
「となり、いいかな?」
「はい……」
わたしは喉を何かで潰されたように細った声で答えた。その人はそんなわたしの様子を見て微笑んだ後わたしの右側に座った。
少し、沈黙があった。ここに来たころから続く波の音だけが耳に届く時間が戻ってきた。
わたしは少し無意識に息を振るわせた。ずっと待ち焦がれた「誰か」が誰であるかを知ったことで得た驚きと戸惑いのせい。
この人の事をわたしは知ってる。お気に入りの紅茶屋さんのお姉さんだ。あのお店は年老いた夫婦がやっているのだけど、お姉さんはその夫婦の子ではない。どこの人とは知らないけれど、老夫婦の知人の娘さんだという話を聞いたことがある。
知らずにこれまでわたしは親しげに話していたんだ。名前をはっきりと知らないまま気が付いたら仲良くなっていたお姉さん。
でも、相手はこれまで見ていたわたしを偽者だったと知ることになる。いや、知ってしまったんだ。どう思われるか。知らない人と会うと思っていたから余計にどう思われるか怖くなった。
嫌われるだろうか。それとも、わたしの事を理解してくれるだろうか。
鏡でみた今日のわたしは確実に昨日のわたしとは違う姿だった。それに違和感を覚えたけど、それに慣れなければいけないとも思えた。昨日までのわたしに戻る事はできない。
お姉さんはどう思っているだろう。お姉さんの知ってるわたしは「よくお店にくる女の子」だ。その女の子がこの姿で何者であるかを知った上でここにいたらどう思うだろう。
昨日までのわたしは女の子であることに人一倍注意深かった。できるだけかわいらしいくするように心がけていた、容姿も仕草も言葉遣いも。そして、わたしは誰よりも女の子だった。一緒に学校に通う友達の誰よりも。誰もそのことに対して疑問も疑念も持たなかったし、時には男の子から口説かれもした。
だけど、それはおかしい。昨日までのわたしが本当だったらこうして今、ここに居ないはずだから。だからこうして、生まれる前から約束していた相手の為に正しい姿に「戻す」ことになった。戸惑う事はない、「あるべき姿」のはずなのにぎこちなかったとしても、わたしのことを知らないならそういうものだと思ってくれるはず。
でも、こうして会うことになったのは「わたしという女の子」の姿を時々だけど見てきた人。何度かお店を訪れるたびに「あなたみたいに女の子らしかったらな」とまで言われた。だから、今のわたしのこの姿を見たら相手はきっとわたしのことを嫌いになる。だって、嘘をついてきたし、それに……わたしなら不振に思う。
「ねぇ、あたしはさ、今日、あなたと友達になりに来たの。親たちがどう考えていようと関係なくね。だから、色んなことを話したいの。でも、その前に一つ聞いていいかな?」
「はい」
「かわいい声だね。幼くて、でも、綺麗――それはそうと、あなたによく似た人をあたしは知ってるんだけど、あなたはその人なのかな? それならあたしを知ってると思うんだけど」
お姉さんは興味深そうにわたしを見て言う。これは別人かわたし自身かを判断しかねてるってこと? それなら、ここで別人ですと言って、そのまま昨日までのわたしが姿を消せば傷つかずにいられるかもしれない。
でも、それはいつか分かってしまう。付け焼刃の嘘は簡単にほつれていく。
物心ついてからのわたしの嘘が続けられたのはお母さんがその下地を作ってくれたから。それとは違ってこの嘘は急ごしらえ。それは簡単に嘘をつき続けられなくなる。
「そうです。時々、あの紅茶屋さんに行っていました。今とは違う格好で」
「やっぱりそうか」
お姉さんは探偵映画の主人公のように知的な笑みを浮かべた。何か胸の置くまで覗き込もうとするように、わたしという犯人を追い詰めるように。
そして突然、手持ち無沙汰で胸のタイに手をかけていた、そのわたしの手をお姉さんは取った。お祈りの姿勢のように両手を結んだ状態のわたしの手に自分の手を覆うような姿勢をとって自分の口元に近づける。手にキスでもするように。
そんな、余計な比喩をわたしは本当と勘違いして一瞬体を振るわせた。間近でみるお姉さんの瞳はすごくきれいで、お姉さん自信も美人だって気が付いてしまったから。
でも、そういうつもりはないみたい。そうじゃなくて真剣にわたしの目を見ていた。
「単刀直入に聞くわ。これだけは知っておかないとあたしもどうしていいかわからないもの」
そう言って戸惑いと怒っているのかもっていう不安で目をそらしたくなっているわたしをさらに力強くまっすぐ見た。そして、簡単だけど、答えは決まりきってるけど不安な問いを投げかけてきた。
「あなたは『男の子』でいいのね?」
わたしは少し躊躇しながら頷いた。そのつもりでいても、答えるとなると慣れないものだから。
3
Side B
あたしの質問に男の子は少し間をおいて、ためらった様子でうなずいた。
どんな人かも知らないで、しかも言い出した両親の関与もなしにお見合いという名のブラインドデートをすることになったあたしに、その相手が何者かというのはあまりに大きなサプライズだ。
あたしが手伝っている紅茶屋の常連客だった女の子が実は男の子でお見合い相手。ラジオか何かのコメディショーで話すには最適かもしれない。でも、こうして事実として目の前にあると戸惑わずにはいられない。何から何まで冗談のような話だ。
それにしても。「男の子」だと思って見ると、あたしのお見合い相手はあまりに幼くてか弱そうで、その姿がとても儚げに見えた。それはこの子が華奢だからというのもあるだろうけど、その仕草のせいだと思う。
足を閉じてひざに手を置いて、体をより小さく見せるような仕草でベンチに座っている。まるで、「女の子の見本」とでも言うように、本のタイトルのように色を付けるなら「淑女のマナーの教科書」とでも言いたくなるくらいに。
昨日、お店に茶葉を買いに来た時、「彼女」はやはり、「同性である」あたしの目から見ても魅力的な女の子だった。見習いたくても見習えないくらいに。
あの仕草は「ふり」ではないのだろう。今こうしてあたしの隣にいる「彼」の仕草からはっきりとわかる。
お見合いなんて大それたことを考えづらいから両親の言うとおりに「友達ができる」くらいのつもりでここに来たわけだけど、「自分よりもはるかに女らしい彼」という人への感情は最初まだ見ぬ相手へ持っていた親近感から「簡潔な好奇心」へと変わった。
だから、来るだけ、その後はどうしようかも考えずにここに来たわけだけど、こうして好奇心が沸いてきたのなら楽しむしかない。「何も考えず」というのは相手が年下とはいえ男性だからエスコートしてくれるということを期待してのことだ。でも、相手が「見習いたくても叶わない女の子としてもお手本」なのだから、こちらからエスコートするのが筋だろう。
初対面ではないのだからお互いの接し方の試行錯誤は不要だし、それに知人の予想もしなかった姿なんてものが目の前にあるわけだから、そのことを知る方が今日という大げさに決められていた日を過ごすのにちょうどいい。
あと、言い訳のように今日を決めた両親と彼の親御さんへの理由を定めるのならば、「これから深く関わりあうであろう相手を理解する為」だと言い切ることができる。だから、そういう意味でもちょうどいい。
まずは、どういう理由からかあたしの言葉を恐る恐る待っているこのたおやかな少年の不安を解いてあげないと。
「よかった。それなら安心して誘う事ができるわ。さぁ、行きましょう」
「あの……」
「そんなに畏まらなくていいわ。昨日はそんなんじゃなかったでしょ?」
男の子はちいさくうなずいた。その所作はさきほどよりも小さい。
ここではまだ数えるほどしか言葉を交わしていないけれど、あたしに対してはやけに慎重になっている気がする。女の子らしさを隠そうとしているのだろうか。
あたしはそんな様子を見てまずは落ち着いて話せる場所への移動が何より必要だと思った。
「さぁ……」
あたしは苦手だけど出来るだけ柔らかくその意味を成すかどうかも微妙な短い言葉を紡ぐ。そして、これもそっと優しく、彼の手をつかむ。手を繋いで目的地に向かう事にしたからだ。
曲がりなりにも、この言い方が正しいかは分からないけれど、たぶん、あたしたちは親が決めた仲の男女であり女の子同士だ。だから、昨日までの距離感からも初対面からも一気に距離を縮める事が許されるんじゃないかと思えた。
男の子の方に目を向けると彼は顔を赤らめている。少なくともこの子にとってのあたしは異性としてか同性としてかは別として今日こうして会う意味に沿ったものらしい。
それを理解するとあたしはこのブラインドデートがよりいっそう楽しいものに思えてきた。
Side A
お姉さんがわたしを連れ来たのは小さな温室だった。そこは壁も屋根も全てが窓で、日差しが満遍なく降り注ぐ暖かな空間だった。夏が終わりつつあるとはいってもまだまだ暖かい今の季節だけど、けして中は暑すぎず、外よりもいくらか暖かいというくらいだった。
温室の真ん中にあるテーブルに案内されて白く、背もたれや肘掛にツタか何かに似た装飾がされていた。お姉さんは椅子を引いて丁寧にわたしを座らせると、自分は反対側に座ってコーヒーサイフォンの準備をして付属のアルコールランプに火をつけた。
その間、わたしの心臓は強く脈打っていた。テンポは速く、それでいて強い鼓動。
一拍一拍を注意深く数えながら、わたしはここに来るまでの短い間続いていた手の感触を思い出していた。それはまだ少しわたしの手のひらに残っていて、それを意識すると喉の奥から胸までがむずがゆく感じられた。
これはわたしが男の子であるという証拠なんだろうか。でも、女の子と手を繋ぐなんて小さなころからつい最近まで何度もあったことだ。それなのに今日はどうしてこんな風に不自然なほどそわそわしているんだろう。
わたしがここに居る意味のせい? それとも、昨日で女の子であることをやめて男の子になったせい?
どちらにしても、お姉さんともっと仲良くなりたかったからその機会を嬉しくは思っている。女の子でいることをまだ見ぬ誰かの想像に使っていたけれど、その誰かが日頃「素敵だな」って思っていたお姉さんだったんだから。
でも、お姉さんは女の子だと嘘をついて、男の子に姿を変えて自分の前に現れたわたしをどう思っているんだろう。
ここに来るまでに通ってきたレンガの道でお姉さんは「たくさんお話したい」って言っていたけど、それはどういう意味なんだろう。
わたしと仲良くなりたいって思ってくれてるのかな? それとも、嘘をついていたわたしを責めるんだろうか。
「今日は、紅茶じゃないけど。それに、時間もかかるわ。ねぇ、コーヒーは嫌いじゃない? 何も聞かずに勝手に用意してしまったけど」
お姉さんはわたしの向かい側からわたしの横に来ると顔をサイフォンに向けたまま横目でこちらを見て言った。
「はい。普段はあまり飲まないけど、でも、コーヒーも好きですから」
「それならよかった」
今度は顔もわたしの方へ向ける。お姉さんとわたしは目が合った。わたしはほんのわずかな間だけだったけどその深い色の目に体の動きを奪われたような気がした。
「すごく、びっくりしたかな。お見合い相手があなただったってのが」
そう言ってお姉さんは微笑んだ。
「素敵なタイね、すごく似合ってる。映画で見た貴族の子息みたいって今日最初思ったの。愛らしくて上品で、そんな幼いロードにね。でも、こうして話すともっと別の印象があるわ」
「別、ですか?」
「うん。すごくフェミニンだなって。仕草も話し方も。女であるあたしとしては悔しいくらいにね。それに、昨日もその前もあなたがうちのお店に来る時はいつもワンピースやフレアスカート、いろいろとかわいらしい格好をしてた。あなたが男の子なのはあなたがそうだと言ったし、うちの両親とあなたの親御さんの約束もあるから確かでしょうけど。それでも、あなたが『きちんと男の子』だとは思えないの。今までに見たあなたは『まぎれもなく女の子』だったし、今日のあなたも女の子が男装しているみたい。いえ、それよりも『男の子風の格好』をした女の子といった方がいいかもしれない。それがどうしてなのか、それが気になるの。あなたは本当に男の子なの?」
「男の子です。紛れもなく、少なくとも今日からは」
「『今日からは』? じゃあ、昨日までは?」
お姉さんはわたしを疑うような目で見た。やっぱり不振だと思われてる。恐れたとおりだ。
「『女の子として』過ごしてきました。すくなくともわたしが物心ついてからは」
「それは、『女の子として育てられた』っていうこと?」
「はい。男の子であることは知っていたけど、着るものも言葉遣いも全て女の子のものを選ばされてきたんです」
「そうなんだ。でも、どうして?」
「それは……」
「話したくないなら無理にとは言わないわ。あたしは一応は許婚なわけだから――親が本気でそのつもりかは疑わしいとはいえどね――それに、それを抜きにしても友達にはなれるかなって思ってたから出来るだけあなたを知りたいって思ったんだけど、でも、傷つけるつもりなんてないの。話すのが辛くて傷つけたらそれも無駄になってしまうから」
「大丈夫です! ただ、あなたがどれだけわたしのことを、わたしの家のことを知ってるのかなと思って」
「それなら、何も知らないわ。多分、あなたもあたしのことを紅茶屋の店員くらいにしか知らないでしょ?」
「はい。それも今日会う人としてじゃなく」
「でしょ? あたしも、親の友達の息子さんとしか知らないわ。その友達がどんな人なのかも」
「やっぱりそうなんですね」
わたしはなんだか急におかしくなって相手が気付くか気付かないかくらいだけど小さく笑った。ここまで何も知らないで「許婚」と「お見合い」なんてのが急に変に思えたから。これまでずっとそんなこと思わなかったのに。
「わたし、父がいないんです。わたしが生まれる前に母の元を離れたらしくて。詳しくはしらないんですけど、元々母は男嫌いで、『数少ない例外』として父を愛していたからその父に裏切られたのがショックだった見たいで。わたしを『あんな愚か者のようにはなって欲しくない』と女の子として育てたんです。とは言っても、男と女は大きくなれば違ってきます。わたしはまだ子供だからまだ女の子で居ても分からないですけど、いつかはそうじゃなくなります。だから、あなたのお母様との約束の日までの間の期限付きとして。わたしたちの約束は父が居なくなる前からだそうですけど、だからこそ余計に『男のよくないところを知らずに育って欲しかった』と言ってました」
変な話かもしれない。わたしは小さなころは「男はダメなものだからそうならないように」って言われてきたけど、大きくなるにしたがっていろいろなものを見聞きすれば少しはおかしいとも思う。おそらく、お姉さんはわたしの話を聞いてわたしが想像する以上におかしいと思っているだろう。
「だからか。それで納得いった。驚いたのが正直なところだけど。女親ひとりに女の子として育てられたなら確かに、男の子を感じないかもね」
お姉さんはそう言うと立ち上がり、淹れ終わったコーヒーをサイフォンのフラスコからカップへ注いだ。そして、普段、お店でお客にするように丁寧にかつ上品にわたしに差し出した。
それまでは椅子の位置からわたしとお姉さんの位置はテーブルの隣り合ういっぺんの中央を結ぶ距離だったけど、今はお姉さんはわたしのすぐ横に居る。
入ったときは気付かなかった花の香りとは違う香りがわたしの花にかすかに届いた。これは香水? 甘い香り。
「コーヒーを飲む前にね、ひとつ聞いておきたいの」
「何ですか?」
お姉さんは手を差し出し、その両方でわたしの両頬に触れた。体中に弱く疼くようなくすぐったい感覚が走る。
「あなた自身としてはどっちなのかなって」
「……?」
「例えば、今、あたしのことをどう見てるのかな?」
お姉さんの目はすぐ近くで他のどこにも向かわずわたしの瞳を奥を見ている。
紅茶屋さんで見ていたお姉さんと、今日を迎えるまでの想像が一度にわたしの頭のなかで走る。映画の上映が始まったばかりの明るさに戸惑うように頭の中がその光景眩む。
そして、わたしは気がついた。お姉さんに対して思っていた「素敵」っていうのがどういう意味だったのか。どれだけ特別だったのかってことを。
4
Side A
単なる好奇心、気まぐれのお戯れ。その程度のつもりだった。
あたし自身、そういう行動を取ることに慣れているわけじゃない。それどころか、初めてだ。
こうして目の前に居るのはあたしが人生の中で初めて親しくなる男性――それがどういう形かはまだ分からないとは言えどそれは確かだ。そんな相手の瞳から動きを奪い、もとよりほんのり紅色の頬をこれでもかと言うほど赤くそめるようなことをしている訳で、正直言うとこちらとしても十分動揺してる。
向こうはあたしの非じゃないだろう。それは見ていて分かる。
そんな彼の様子を見ていてなんとなく、軽く考えていたあたしと違い、この子にとっての今日は特別な物だったんだということが伝わってきた。物心ついた時から偽って女の子としてきたことをやめて男の子としての日々を始める日であり、そんな大きな変革の日に会うのは親の決めた許婚。
彼のお母さんが言っていたという「男はダメなもの」という言葉。その言葉からそういう事を知らない「理想的な男」に育てられたんだということがなんとなく読み取れた。「男というものを知らない男」がはたして理想的なのかはあたしには疑問ではあるけども。
ただ、どうあっても今の彼のいろいろなものがあたしというお見合い相手の為に作り上げられたものだと考えると、これまでの関わりでの部分まで踏まえて不思議といとおしく思えてくる。それが男女の間のものなのかは恋という経験をもたないあたしには分からないし、どう考えて結論付けようとも疑問の余地のあるものだろうけど。
それでも、当初の心積もりの通り友達になるというものに近くはなるけども、そういった形でもこの子の気持ちには応えてあげたいとも思った。
恋愛小説で呼んだ描写を控えめに真似る、だけど、時には友として、そして、あたしの方が年上だから姉の様に。ある種、特別な「仲良し」の立場を築いていくことがあたしたちには必要な気がする。
軽く考えてはいたけど、こうして考えるとあたしにも特別なんだと今、この瞬間に思い知った。正直それは自分の両親に対して悔しく感じて心の中で皮肉な笑みの一つもしてやりたくなるような気持ちだけども。
さて、「彼」の口からあたしをどう見てるのか、そこを聞かないことにはどう接するのが一番なのかはわからない。どう、あたしの問いには答えてくれるんだろう?
Side B
頬から伝わるお姉さんの手の感触は最初少しひんやりしていた。
香水は手首につけているんだろう。最初に香りに気がついたときよりもはっきりと鼻に伝わってくる。その香りも含めて緊張を生むけど心地いい。
そして、こうして触れられていることがなんだか嬉しい。
「あ……あの……」
わたしは言葉がみつからなくて、でも、何か言わなきゃいけないような気がして最初に会った時みたいなかすれそうな弱々しい声を洩らしながら言葉を捜した。
こういう時、何ていう言葉がいいのかわからない。
毎日、お母さんに褒めてもらいたくてできるだけかわいくしていたこと。そして、そんな格好を同じように紅茶屋さんに行くたびにお姉さんに褒められてうれしかったこと。
だけど、どう見ても女の子である自分にはまだ見ぬ特別な女性の姿の想像を自分に映し出したものだったこと。そして、紅茶屋でお姉さんに会うのが楽しみで、想像の結果の自分の姿を褒められるのが嬉しいだけじゃなくて、辛く思うこともあったこと。そして、服やアクセサリーを自分で選ぶには「お姉さんに似合いそう」と頭の片隅で考えていたこと。気持ちがメトロノームのように行ったり来たりしてた先にあったのが今日だったわけで、それを何ていえばお姉さんは分かってくれるんだろう? それを考えていた。
「あなただったのが嬉しいです。その、うまく言えないけどそれだけ」
考えて考えてようやく見つけた言葉がそれだった。初めて持った気持ちだったからそれ以外に何て言っていいのか分からなかったし、こうしていると頭の中が地震で揺れるようでうまく考えられなかったから。
「それは」
「紅茶屋さんに行くたびにもっと仲良くなりたいなって思ってて。でも、一番仲良くならなきゃいけない誰かは他にいて。でも――」
「――それがあたしだった?」
「はい。だから嬉しくて。その……」
言葉を続けようとしたら急につっかえた。息が詰まるみたいに。そして、目が少し熱い。そして、頬を伝う感触がする。言いたいことが分かってもらえたって理解できてすぐに力が抜けて、それと一緒にそんな感覚を覚えた。
「そんなに考えてたんだ。そうかぁ。そうね、それならあたしも嬉しいわ」
お姉さんは自分の座っていた椅子をわたしのすぐ隣まで引き寄せてそこに座ると少しだけわたしの方に寄り添うみたいに体を傾けた。そして、やさしく、頬に触れてくれた時の様に肘掛の上にあるわたしの手に触れた。軽く握るように。
「あなたほどじゃないけどね、あたしも今日会う人と仲良くなれたらなぁって考えてたの。許婚っていうのは今のあたしにはピンと来ないけど、初めて男の子の友達ができるって」
すぐ隣。手だけじゃなく肩と肩とが触れる位置だったから顔もすぐ近い。そんな位置でお姉さんは少し早口な口調を意識して遅くして言った。わたしは顔の近さに胸の奥をつかまるような感じを覚えたけど、そんな動揺を悟られないように黙っている。
「あなたと同じであたし、男の子からは凄く遠くそだったの。父と先生――お店のご主人くらいしか男の人と話したことなわけで、年の近い男の子なんて遠くから眺めるだけ、まさに未知の世界よ。だから、気楽に思ってはいたけど、今日はちょっと怖かったのもあったの。でも、こうして会ってみればそんな事はなくて、とっても親しみやすい。そりゃあ、偽りとはいえ昨日までは女の子だったわけだけど、それでもあなたがいい子なのは女の子だったころを見ててなんとなくわかってはいたから。だから、何ていうのかなあなたとはこれから仲良くなっていけるような気がするの」
「本当……ですか?」
「うん。まだ、あなたがあたしを見るのとは違うけどね」
「それでも……嫌われてなくて安心しました」
「嫌うつもりは元からなかったよ」
お姉さんは笑いながら言う。
「だって、嘘をついていたし。わたしのこれまでがおかしいのも知ってたから」
「それでも、嫌う理由にはならないよ。せっかく、親同士が何の理由かは分からないけどくれた機会だから、仲良しになりたいよ。それに――」
「――それに?」
「『叶わないくらいかわいらしい女の子』が男の子になっていくのを見ていたい。これからあなたがどんな男性になっていくのかをね」
「それ、どうなるかわからないですけど……」
「それでもいいよ。あたしとしてはあなたのお母様よりも『あたしの理想』になってくれたら嬉しいけどね」
「え……。それって……?」
お姉さんはわたしがそうつぶやくと、わざとそれを無視するように注がれたままになっていたコーヒーに口をつけた。
「まだ、あたしの気持ちはわからないけど、一応、許婚だしね。それに今のところはあたしにとっての『唯一の男の子』なのよ。楽しみくらいは欲しいものね」
そう言われると、わたしはなんだか照れくさくなってお姉さんから顔をそらした。
そして、その先にちょうどこの温室のガラスの壁に自分の顔が映っているのが見えて赤くなっているのが分かった。
「それはそうと、早く飲まないとコーヒーさめちゃうよ。暖かいうちに飲んでほしいわ」
お姉さんは芝居がかったような言い方でわたしにコーヒーを勧める。
「はい」
そう言ってわたしもコーヒーを飲み始める。
お姉さんはそんなわたしを見て「かわいい」って小さな声で言ったけど、それはきっと「はい」の言い方や飲むときの仕草が女の子のものだったんだろう。これは直していかないといけないもの、のはず。
それからお姉さんはこの温室の花の話しをはじめた。特に何もないさりげない会話。
わたしはそれを頷いたりしながら聞いている。わたしもさりげなくしている。
ようやくこうして紅茶屋さんの延長線上みたいな自然な会話ができてみて、なんだか心地よく思えた。
仲良くなる――この言葉はいろんな意味になるけれど、こういう時間を重ねているうちにわたしの望む形に向かうといいなって思う。その為にはお姉さんの『理想』の形に、そんな男の子になれるようにしないといけない、それも思った。
どうあっても、わたしに季節の変わり目はやってきたっていうこと。それをどう思うか、それがどうなるかはまだ先にならなきゃ分からないけども。
5
Side A
小さな温室にコーヒーの香りが広がっていく。ここで使われるのがサイフォンなのはそれが理由なんだそう。
太陽の光で暖められた小さな空間がコーヒーの香りが生まれ、それが植えられた花の香りと混ざり合っていく。いつの季節も花が咲き続けるここでその香りのカクテルに触れていることがとても幸せに思えるから。
それは簡単なことじゃない。花が咲き続けるには植え続け、世話をし続けなければいけない。コーヒーもより強く香りを引き出すにはドリップよりも手間と時間をかけて抽出しなければいけない。どちらにしても手をかけ待つことが必要だ。
でも、わたしはそれが好き。
この植物園の中でここはプライベートな場所だから、わたしたちしか知らない。そんな空間でこうして待ちながら落ち着いて何もせず過ごす時間が幸せ。それは一週間のうちで一番幸せな時間の前触れだから。
この一年の間、本当にわたしには大きな変化が続いた。「違う」ということがここまで大きな物だって鏡の自分に誰かを見ていたころは知らなかった。
十分な変化はまだ成し得ていない。春を迎えた蝶のようにはいかない。わたしは少しずつ時間をかけていかなければいけないし、変わることの出来ないものもあることは心に留めておかないと。
それを認めてくれる人がいて、そして、変化を楽しみにしてくれている。
わたしは彼女のために怖かった変化をひとつひとつ受け入れていく。
テーブルに伏せてアルコールランプの青い炎を見つめ、脱力する。待つ時間は退屈で、そして、その間にする想像はたったひとつ。ここからでは聞こえない足音と改札を出たあの人の表情だ。
そろそろ、この街について駅からそれほど離れていないここを目指しているに違いない。
そう考えると自然と頬が熱くなる。
今日は朝から姿見を何度も見て服を選んだんだ。どんな服装なら喜んでくれるか。会ったらまずどんな顔をしようか。昔の様にするべきだろうか、それとも今のわたしであるべきか。
この部分は笑ってしまうくらい、去年までのわたしのままだ。
だけど、違うのはわたし自身が本当の姿――男の子であるということと、「まだ見ぬ誰か」なんかではなくて「はっきりと誰か」を思っていること。そして、鏡に映る姿の位置づけが「自分自身」であるということだ。
なんだか、鏡をみることが前よりも落ち着いている気がする。今考えると、あのころには「嘘であることへの怯え」をどこかで感じていたからだろう。
女の子しかいない環境で女の子として育って、それをやめて男の子もいる環境に何もわからず放り出されて、毎日、戸惑いながら過ごしているけどこことあの人がいるからわたしは今日も笑っていられる。
ガラス越しの柔らかい光とコーヒーの香り、サイフォンのなかの気泡の不規則なつぶやき。それらが心地よくてわたしは意識の半分だけ夢の中に落ちっていく。
うとうとと柔らかい空気が心地いい。
だけど、眠るのは我慢しなければならないかもしれない。わたしのすぐ後ろに人の気配がしていたから。
Side B
日曜日に会いましょう。
日曜の宵の口に毎週交わしている約束。あたしたちの住む待ちの駅を出てあたしは右にあなたは左に逆方向だから、改札を出たらすぐに約束をすることにしている。
それでも次に会うのはその前の平日。彼は店の常連客だから。だけど、どうしてもお互いよそ行きで、少し離れたような感じで接するしかない。
だから、望むかたちで、あるべき形会うのはやっぱり日曜日。それでいい。それがいい。
昼食とティータイムのお菓子、毎週交代でどちらか片方を持ってくる。今日はあたしが昼食の日。とはいえ、昼食には早いし、自然と朝は食べないことになってしまったからブランチというのが正しいだろう。
子供のころにやんちゃをしたあと疲れて昼寝をしていた場所。
しばらく遠ざかって再び馴染みの場所になったときは、新たな共有者ができた。
彼はたいていあたしよりも先に来て待っていてくれる。ようやく使い方を覚えたサイフォンでコーヒーをわかしながら炎を眺めているうちに眠ってしまっていつも起こすことからあたしの休日がはじまる。
毎週、その光景を見るたびに前髪を焦がしてしまわないか心配だけど、今のところはそんな不幸な出来事は起こっていない。
それでも、油断は大敵だしあのやわらかいまれながらのゆるいウェーブのかかった髪は貴重品だから今日こそきつく言いつけておかないと。
あたしと彼の関係は、今のところあたしが主、彼が従だ。それこそ、彼の髪のウェーブのようにゆるいものだけど、あたしが年長者である以上、あたしがリードしていくべきなのは確かなこと。
それに彼は未熟で押さない男の子だ。男性としてあまりに未熟なのだ。
生まれる前に取り決められた理由不明の結びつきにより、つい一年前にここで出会ってからあたしは彼を見守り続けることにした。
それは「生まれてはじめての男友達」を得られた楽しさからだったし、ずっとそのつもりでそれ以上は深くは考えてはいなかった。最初の日から面白いくらいにあたしの一挙一動に一喜一憂していた彼には少し申し訳ないくらいに、彼があたしを見るような特別視など持ってはいなかった。
とはいえ、一年というのはまだ若いあたしたちに変化を起こすのには十分なようで、態度こそ変わりないがあたしがひとつひとつ、日曜日ごとに感じることは深く深く、そして強く変わっていく。
それ以外の六日間にこの空間とやわらかな日差しと結びつくのは彼の幼く頼りなく、まだ男性どころか男の子にすらなりきれていない愛らしい笑顔。
一生懸命、男の子になろうと頑張りはするけども笑顔は素直なもので女の子のままだ。
だけど、その「ゆるみ」みたいなものがあたしは好きだ。
まだあたしよりも小さな恋人は現在と過去、いや、未来と過去――どっちつかつが今だから――をブレンドしたり横断したりしながら少しだけ早く得た恋心をあたしに注いでくれる。今日も、ドリップよりも強い香りのコーヒーと一緒に最初の感情をあたしのカップに注いでくれるに違いない。
温室のドアを開けると今日は珍しくうたたねをしていなかったようで、振り返ってこちらを見た。
彼は立ち上がろうとしたけどもあたしはそれよりも早く彼の隣に行く。
「今日は起きてたのね」
「眠る前に来たから。それに、髪が焦げてしまいそうで少し怖くなって」
「ようやく気付いてくれたんだ。今日、それをきつく言おうと思っていたの」
「そんなことしなくても気付いてますよ」
「ならいいわ」
あたしはそっと彼を抱きしめた。
彼に対する気持ちが変わった日、あたしは香水を変えた。甘い花の香りから、それよりも弱い甘いけれどエキゾチックな苦味もある香りに。それは不完全な香りでついになる香水と合わせるんだそうだ。
それをお店で見つけたときにもう片方の香りを彼にプレゼントした。日曜日にはお互いにつけて来ようと。
彼は一度も忘れることなく香水をつけてくる。もともと香水は使ったことがなかったようだが、憧れてはいたらしい。女の子だったころに。
家を出てから不完全なままだったあたしの香りは彼をここでこうして抱きしめることでひとつの香りとなる。それは甘くて酔わすような不思議な香り。片方だけで存在している癖のようなものが解けて魅惑的なものへと変わっている。
この瞬間、あたしはとても幸せな気持ちになる。
彼の体はまだぜんぜん育っていなくて赤ちゃんのように柔らかい。女の子としての日々を未だに続けていたとしても差し支えないようなそんな愛くるしさを感じながら、成長が楽しみな男の子であることを考えてあたしは不思議な感覚を得る。
そんなあたしの考えていることを知らないであろう彼は毎度のことだけど顔を赤らめて照れに耐えられずに目を細めている。
かわいい。そういうところが。
今日は香水以来のプレゼントをしようか。そろそろ、いいころだろう。
「目を閉じて」
「え……?」
「ほら、早く」
「……はい」
彼はあたしが何をしようとしているのか分かったらしい。驚きながらそして、恐れるようにでも息を飲み込んで覚悟をするように、でも、うれしそうに恥ずかしがりながら目を閉じた。
正直言ってずっと憧れた。あたしは誰かとのこの瞬間を夢に見てきた。それは彼も一緒だろう。
それは想い合う者の通過儀礼。そして、それが過ぎれば別のもっと身近なものに変わるもの。
すっかりとこちらの気持ちも強いものになってしまったんだから望んだっていいだろう。彼も受け入れてくれるんだから。
予感していたのか、どうなのか。今日はいつもの手首ではなく首筋に香水をつけている。あたしもそうしていたけど、彼もだったのは驚いた。
でも、ちょうどいい。それなら今日やってくるはじめてに繋がるものがひとつ増えるんだから。
あたしは息を止めてそっと自分の唇を彼の唇に近づけた。そして、それと同時に抱きしめる力を強めた。
そこにはこれから先にあたしたちが過ごす時間への期待を込めて、そして、軽い気持ちがすっかり夢中に変わったことへの前向きな悔しさを混ぜ込んだ。
またひとつ、この温室にたいする特別な想いが増えた。今回もまた共有者と一緒に。