ショートショート

冬篭りと春支度

2009年01月06日 0:09

 小さな頃はここで雪だるまやかまくらをよく作った。

 高台の住宅地の端っこ、そこから道路と柵を隔ててどこまで続くのかわからない広い原っぱ。

 柵を越えたのは何年ぶりだろう。

 あの頃はあの家がもっと大きく見えたし、庭だってすごく広かった。

 だけど、あのブランコは今ではミニチュアにしか見えない。

 そうか、数えてみたらあれから七年もたったんだ。七年間もわたしはここを通るたびに足を止めて、息を潜めてるんだ。

 振り返ってみると本当にバカみたいな時間を過ごしていたと思う。

 割り切れない気持ちのせいでどこまでも周りの友達には置いてけぼりを喰らっていたようなそんな気がする。

 あの家を尋ねる事はすっかりなくなってしまった。尋ねたいと思った事もあるし、たまたまここを通った時にあの家の人たちに話しかけられた事もある。

 だけど、用事があるからと何度も逃げている。

 そうだ。辛いのはお互い様なんだ。だけど、わたしの寂しさに比べたらあの人たちの辛い感情はわたしのが今知っているどんな言葉でも足りないほど大きいもののはず。だから、うっかり軽はずみな涙を流してしまう事がなんだか失礼な気がしてほんの少しの立ち話が限界だった。

 でも、逃げたって避けたってわたしにとってあの家は特別で大切な初恋の家。

 あの人たちの愛情とわたしの恋心はこの街のどこかにある知らない医学だか科学の用語で名づけられた所で冬篭りの真っ最中なんだ。

「あら…?」

 道路と原っぱを隔てる柵に手をかけて過ぎた時間に虚無感を感じるわたしを、今、一番聞きたくなかった声がいきなり現実に引き戻した。

 年の割にはずいぶんと若い身なりをした女性。わたしの母親と年が同じはずなのに、それよりも十歳は若く見られるであろう魅力的な女性だ。

「久しぶりね。元気だった?」

 すごく明るい笑顔だ。この人はあの家の人。余計な事を思い出すし、安易な悲しみを顔どころか振る舞いに表してしまいそうで会うのはできるだけ避けていたい人だ。

「どうしたの? 雪だるまでも作ろうと思ってるの?」

 冗談めかした笑いで声を彩りながら言う。なんだか今日はやけに明るい。どうしたって言うんだろう?

 わたしはうっかり余計な感情を表さないように慎重に顔の隅々に神経を尖らせながら小さく首を横に振った。これまでの七年間そうしてきたのと同じように。

「そうよね、もうそういう年じゃないわよね。ところでさ、もし、暇だったらうちによっていかない? たまにはゆっくりお話したいわ」

 やっぱり明るい。それもあの日がやって来る前のように。

 わたしはそんな彼女の態度に少しばかり苛立ちを覚えた。

 そして、わたしはどういうわけか首を縦に振っていた。それも、わざわざ笑顔を作ったりしながら。

​​

 ここに来るのは七年ぶりだった。この期間にわたしの家はすっかり変わっていたけれど、ここだけはまるで時間が止まったかのようだった。

 なんだか、その様子を見ると安心した。懐かしい声が聞こえてくる気がして。

 彼女はわたしを今に案内するとすぐにキッチンへ向かった。お茶と買い置きしておいたクッキーを出してくれるんだそうだ。

 あの人はいままで、短い立ち話をする時はいつでも悲しさと喪失感を漂わせていた。

 だけど、今日はそれを少しも感じない。どうしたというんだろう?

 もしかして、忘れてしまったんだろうか。あれだけ泣いていたのに。それなのに。

 キッチンからは鼻歌が聞こえてきた。それはとても楽しそうだ。

 やっぱりそうなんだ。

「おまたせ。久しぶりのお客様だから奮発しちゃったの。さぁ……」

 彼女は何かを言いかけて目を見開いて驚いた様子でわたしを見た。

 驚いた表情。彼女は今のわたしが理解できないんだろう。

 自分が戻るなり立ち上がって睨み付ける少女がどういうつもりでいるのかなんて。

 わたしは今、心の底から彼女を軽蔑していた。そうだ。たとえ時間が経ったところでのんきにしていられるなんて酷すぎる。

 その子はそんな程度の存在じゃない。

「どうしたの? そんな怖い顔をして」

「どうしたのじゃないです! よくそんなに楽しそうにしてられますね。それでも……」

「その事……」

 わたしは反射的に静まり返った冬の夕暮れ時を叩き割りそうなほどに大きな声で彼女を責めた。だけど、彼女はそんなわたしにただ柔らかな笑みを浮かべた。

 いったい、何なの……?

 彼女の態度がますます分からなくなった。そして、軽蔑は嫌悪感へと形を変えていた。

「今の私はね、とっても幸せな気分なの。もう、泣かなくてよくなったから。どうしてか分かる?」

「分かるわけありません」

「そうよね。それは当たり前だわ」

 彼女はそう言うとそっとお茶とクッキーを乗せたトレイをテーブルに置いた。そして、そっと近づいて来て、わたしの手を取った。

「とっても素敵なニュースがあったの」

 そう言うと彼女はゆっくりと目を細めてわたしを見た。

「あの子がね、もうすぐ目を覚ますのよ」

「え……?」

 わたしは彼女の口から出た予想外の言葉に強張っていた体中の力が抜けた。

 もうすぐ…目を覚ます……?

 言葉を頭の中で反復する。

 何度も何度も繰り返してようやく意味を咀嚼出来た時、わたしは大声で泣いていた。

 もうなんだか訳が分からなくなりながら。

 だけど、わたしがついさっきまで辛く当たっていた人がそんな事を気にする様子もなく同じ気持ちを共有しながら抱きしめてくれていた事だけは分かった。

​​

 この家はわたしの初恋の人の家。

 三歳年上の優しげなお兄さんだったって事は記憶している。あの頃はご近所さんだった。

 わたしはあの頃、小さな子の初恋にありがちな「お嫁さんになる」っていう約束を一番の仲良しなあのお兄さんにしていたんだ。

 だけど、七年前にそんなわたしのささやかな夢を奪うような出来事があった。

 秋口に体調を崩したお兄さんを救急車は急ぎ足で連れて行った。それはとても急な事。

 そして、あとからあの頃はおばさんと呼んでいたお兄さんのお母さんから、お兄さんは治すことの出来ない病気になって、治す薬が発明されるまで眠る事になったんだと教えられた。

 これは後から新聞で知ったんだけど、人口冬眠というものらしい。お兄さんは機械の中で時間の流れをわたしには想像できないほどゆっくりにされてあの頃のままの状態で眠り続けてるんだそうだ。

 こうして、お兄さんのいなくなった状態で気持ちだけは変わらないままわたしたちの時間は七年というあの頃には気が遠くなるほど長く思えた時間を歩んでしまったのだ。

 だけど、今日のこのニュースはその虚無感を抱えながら待つ時間へのピリオドだった。

 これから一ヶ月間、お兄さんは時間を元に戻され、あの頃は不治の病だった病気の治療をする事になる。入院はそれ以上になりそうだけど、この冬が終わりに近づく事には会う事ができるんだそうだ。

 なんだか、信じられない。こんな日は絶対来ないってわたしはすっかり諦めていたから。

 でも、それはあと少しでやってくる。こうして近づいてみると待ち遠しくてたまらない。

 ふと我に返ったわたしはちょっとした事を気にしてしまった。

 わたしはお兄さんを何て呼べばいいんだろう? わたしの年はお兄さんの年を四つも追い越してしまった。もう「お兄さん」とは呼べない。

 だから、今まで呼べなかった名前で呼ぼうと思う。

 そして、お姉さんになったわたしがエスコートしてあげるんだ。かわいい年下の男の子になったお兄さんの事をね。

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