ショートショート
僕の晴れ間と衣替えの午後
2009年07月06日 23:50
1
梅雨明けが近いのか、今日は久しぶりに雨が止んで暖かい日になった。湿っぽい空気ではあるけど、雨の日や数日前の低気圧が来ていた頃に比べたら快適なほうだ。
だから、今日は窓を開けて扇風機を回してなるべくこの居間の中を風が通るようにしている。
正直言うと、外に出かけたいんだけど、今日はそうしようにもどうしても躊躇してしまう理由がある。だからせめて窓から入ってくる乾きたての土やアスファルトの匂いをなんとなく感じたり空を広く覆う雲の切れ間から時々覗く太陽が庭を照らすのを窓辺のソファから眺めている。
もう一時間くらいここから動いていない。もう二ヶ月くらいになるのにどうしても立ち上がって歩く事に慣れることができない事が嫌だからだ。歩いていてすごくぎこちなく感じるから。
事あるごとに体が変わってしまった事を実感せざるを得ない日常。それがぼくのこの二ヶ月間だ。その前の一ヶ月間は眠っていて、時々、今のこの時間がその時の夢で目が覚めたら全てが元に戻っていたらいいのになんて考えてしまう。
眠っている間に起こった普通は起こらない変化とこれから起こるであろう誰にでも起こる当たり前の変化は、僕に不安と不快感をしっかりと目が覚めるたびに植えつけていってくれる。
男と女の違いって思ってたよりも大きかったんだって嫌ってほど思い知らされる。
僕は中学二年生の女子。もうすぐ、誕生日を迎える。だけど、今から四ヶ月くらい前までは男だった。僕の着ていた学ランは用済みになって押入れの中へ、今はクローゼットのハンガーにセーラー服がかかっている。僕が今、学校に行くのに着なければならないのは着られる準備を常にしているセーラー服だ。
僕の元に近くの大学病院への呼び出しの手紙が来たのが全てのはじまりだった。前にケガをして入院したときの事だろうと思って軽い気持ちで僕は両親に連れられて病院に行った。
だけど、そこには入院したときに診てもらった先生とは違う先生と、どこかの役所の人とその他、難しい名前の仕事をしている人が何人かいた。
そこで告げられたのは「君はこれから女性になってもらいたい」というものだった。
最初は意味がわからなかったけど、それから何回かにわかって説明を受けてどういうことなのか理解する事ができた。
今の時代、世の中の男と女の数はバランスが取れていなくて男の方が多いんだそうだ。そんな状態でこのまま放っておくと男が余って結婚する人が減ってそのせいで人口がどんどん減っていくから対処が必要だって教えられた。
その対処の一つが「男を女に作り変える」というものだったんだ。本来男の方が生まれる可能性が高いのを逆にする為の研究で偶然発見されたんだそうだけど、その実例の一つに僕が選ばれて今に至るというわけ。
最初聞いた時は正直、耳を疑った。当たり前だ。いきなり「女になってくれないか?」なんて聞いたら誰だっておかしいと思う。だけど、一ヶ月もかけて詳しい説明をされると僕ははっきりと理解したんだ。
これは断れるようなものじゃないって。
大人たちは「お願いだ」って言っているけど、その「お願い」っていうのは「強制」の言い換えだってのははっきりとわかった。
色んな先生たちは説明をしたり質問がないか聞いたりして、みんな凄く優しかった。別に脅すような、断ったら怒るような雰囲気では少しもなかった。だけど、先生たちは「この技術で女に変えられる条件に当てはまる人はとても少ない」だとか、「嫌だと思うのは最初だけですぐに慣れる」だとか、あの手この手で僕が断る事がよくないような、女になるという事がなんでもないかのような事を口々に言った。
そこで僕はわかったんだ。僕には「断る」っていう選択肢なんかなくて、この説明や「お願い」という形は単に僕を不安にさせない為、僕が女になる事を苦痛に思う事で何かしらの問題になる事を避けるためなんだって。
大学病院に通って、自分の身に起こる事の説明を受けた一ヶ月間は僕にとって諦める為の一ヶ月間だった。事実、僕はあの時、自分の人生がこれで終わるというつもりで毎日を過ごしていた。
三ヶ月前、僕は大学病院に入院して一ヶ月にわたる体の大改造を眠った状態で受ける事になった。眠る時、僕はこれで全部終わりだって思った。もう、全部どうでも良かったんだ。
それから僕は大げさな機械につながれた状態で眠りについたのに、ありがちな個室の病室のごく普通のベッドで目を覚ました。目が覚めてからしばらくは体に力が入らなくて顔の向きを動かすくらいしかできなさそうだった。
そんな中で僕はすっきりしない頭で色々な事を考えていた。横になってる状態だと体が変わってしまったかどうかなんてわからない。小学校の頃から学校で僕みたいにこれから大人になる子供の体に何が起こるのかは知ってはいるけど、まだそういう変化が起こる段階ではないのも知ってる。
だけど、生まれた時から男と女に体の違いはある。それを知るにはその部分に手を触れればいい。だけど、そうする勇気がなかったから脱力感を絶えて起き上がることにした。そして、一ヶ月眠り続けた事は体をずいぶんと鈍らせてしまう事を実感しつつ一歩二歩あるいて自覚した。足の付け根の感覚がずいぶん違った。つまり、もうすでに自分が男じゃないって事をたったそれだけの動作で痛いほど自覚せざるを得なかった。
凄くショックだった。今でも立ち上がる時、どうしてもその事を考えてしまう。
僕がソファから動きたくないのはそのせいだ。できる事ならこの体に起こった変化を忘れていたい。
だけど、現実離れした目覚めてからの短い入院生活を終えて日常に戻ると、日々のあちらこちらに自分が女である事を思い知らされる。着替える時、風呂に入る時、トイレに行く時、今はそのくらいだけど、まだ「子供の女」である僕が「大人の女」に変われば服を選ぶに事も周囲の目も要求される振る舞いも全てに「自分が女である事」が付いて回るんだと思う。
男としての最後の三ヶ月。一ヶ月の説明、二ヶ月の通院の検査を受けた時間の中で諦めると同時にどこか楽観的な気持ちもあった。先生に言われた事をどこか信用していたのもあって、体が変われば気持ちも変わるんだと思っていたんだ。でも、そんなに簡単にはいかない。僕の心は男だった頃と何にも変わっていない。今でも男のつもりでいる。
そもそも、心が男か女かって何が違うんだ? スカートを履くのに抵抗があるし、母さんが勝手に捨てた男だった頃の下着の代わりに買ってきた女物の下着も毎朝、身につけるたびに泣きそうな気分になる。
それに男を好きになることができるんだろうか? たまたまテレビで見た海辺の夜景をバックに男が女を「愛してる」とか言って抱きしめるシーン。あれが僕だとしたら、僕は男に抱きしめられる方だって事だ。とても想像できない。いや、正直、気持ち悪いって思いさえする。
まだ二ヶ月だって精神科の先生は言ってたけど、いくら時間をかけたって無理だって気がする。いや、どう実感していいのか分からないけど、女である事、女として自分の身に起こる事を否定したいんだと思う。
それに、ひとつ、どう考えて分からない事の中に親にも先生にも言えない事がある。それは多分、忘れないといけないんだろうけど、出来るわけがない。どうすればいいんだ……。
だらしなく僕はソファーに横になる。考える事が多すぎて疲れるんだ。腕をなげだして、病院で目が覚めたときを再現するかのように力なく天井を見上げる。
今、仕事に出かけてる両親はきっと僕がこうしてるのを見たら怒るだろう。父さんは何も言わないけど、最初は気を使ってた母さんはこのごろ「女の子なんだから!」って言うようになった。そう言われるのが苦痛だって分かってくれればいいのに。でも、そうするのが正しいんだろうし、母さんは僕を心配してるのはよく分かってる。だから、反論する事はできない。それがどんなにいらだつ事であっても。
力を抜くと眠くなってくる。どうせ用事もないんだし、昼寝するのもいいかもしれない。
でも、その時だった。眠りかけた僕をドアチャイムが起こした。
「久しぶり」
眠たい目のままで玄関へ出て扉を開けるとそこに居たのはお姉さんだった。
お姉さん――って言っても、僕の姉というわけじゃない。この近所にすんでる高校生の人で、お互いの両親が友達同士だから小さい頃からよく一緒に遊んでた、分かりやすく言えば幼馴染ってやつだ。
高校生になるとバイトだったり勉強だったりいろいろと忙しいせいか、あんまり会う事がなくなってた。僕が女になってからは気にしてくれるのか、最初の一ヶ月は何度か遊びに来てくれていた。だけど、この一ヶ月は家の前で立ち話をしたくらいだったんだ。
「ごめんね。この所、バイトが立て込んでてさぁ。ね、今、暇?」
「うん……。どうしたの?」
「散歩に行かない?」
「うん……」
僕は乗り気にはなれなかったけど、このままひとりでいるのもあまりよくない気がしたのと、お姉さんが僕の事を心配してるのを知ってるから首を縦に振った。態度は消極的かもしれないけども。
「じゃあ、準備しておいで」
「いいよ、このまま行く」
「そう? 携帯とか持った?」
「ポケットに入ってる」
「ならいいか。じゃ、行こうか」
お姉さんは小さな頃にしたように僕の手を引いた。僕はそれにちょっと困った顔をしながらお姉さんについて家の外に出てドアの鍵をかけた。
ぼくの家の近くには街を横断できるサイクリングロードが通ってて、そこは広くはないけど歩く事もできるのでそこを散歩コースにする事にした。
今日は人通りが多い。ほとんどが親子連れか年寄りばかりだ。
「ここ、混むんだ」
僕は変ににぎわうサイクリングロードを不思議がって見せた。いつも通るときはここは静かだから。それもしばらくここには来てなかったんだけど。
「休みはね。今日は日曜日だから」
「日曜日だったけ?」
「そうよ。学校行ってないから曜日感覚狂っちゃった?」
「そうみたい」
僕は今、学校に通ってない。「性別が変わる」なんて学校側でも今までなかった状態にある生徒なわけで、今までと同じ環境において大丈夫かどうかで教育委員会でも議論になってるんだそうで、僕と両親と学校で話し合って結論が出るまで先生から課題を受け取って自宅学習する事になっている。
だから、一日中家にいるのもあって曜日と無関係な生活をしてるんだ。
「まだ、どうするか決まってないんだね」
「制服はもらったんだけどね。けど、本当にどうなるんだろう?」
「転校とか? でも、それだと通うのが大変だよねぇ」
「ばあちゃんの家に住んでそこの近くの学校に通うって話しもあるけど、どうなるかは分からない。そうなりゃ、僕だけじゃ決められないし」
「ふーん。そっかぁ。ところでさ――」
お姉さんは前を向いて喋っていたけど、急に僕の方を向いた。
「まだ『僕』って言ってるんだね」
「あ、うん」
「まだ慣れない?」
「うん。なんか、どうしていい事やら」
「そっかぁ。わたしはさ、生まれてからずっと女だから『男から女に変わる』ってのも、その逆もまるっきり見当も付かないんだけど、それって相当、戸惑うしつらいんだろうなぁってのは想像できる。ねぇ、お姉さんがしてあげられる事って何かあるかな?」
「特にはないかな」
僕は少し考えてから行った。「特にはない」って、正直この質問にはこれ以上の答え方なんてできそうにない。
だって、どうして欲しいも何も、思いつかないんだ。このまま、女として生きていくことがどうしていいのかは分からないけど、でも、それって人に聞いてどうにかなるってものでもないと思うんだ。僕に望める事なんて何にもない。しいていうなら「男に戻る事」なのかもしれないけど、それはどうやっても考えない事にしないといけない。出来るわけないんだから。出来る範囲で何かを望むって実は結構難しい事なんだと思う。
「でもさ、自覚はしてるんだ。今すぐにでも自分の事を『僕』って呼ぶのやめなきゃいけないって。これから先、女として生きるんだから男だった事にしがみつくなんてしちゃいけないんだって。でも、それがどうしていいのか分からなくて……」
僕は歩きながら話すのがなんだか出来なくて、ゆっくりと立ち止まってそう言った。お姉さんはそんな僕の手を取ってサイクリングロードの周りの芝生に引き寄せる。さすがに車が通らないにしても道の真ん中に立ってるのは危ない。お姉さんは凄く細かいところに気が回る。そういうところについ頼りたくなる。
「もう、男の子には戻れないんだもんね。それ、多分、逃げ出したくなるよ、少なくともわたしなら。逃げられないけど、自暴自棄にはなると思う。こうして落ち着いていられるのはエライよ」
お姉さんはそう言って僕の横からそっと肩に手を回す。
「男の子だったら気を使っちゃうんだけどね。でも、今なら不安な時にこうしてあげられるから。悪くないでしょ?」
そう冗談めかして言う。お姉さんは笑いながら言うけど、きっとすごく心配させてしまってるに違いない。お姉さんは一人っ子だけど、小さい頃、ずっと僕が一緒にいたからしっかり「姉らしい」所があったりするんだ。
「そっか、やっぱりいいかもね」
「何が?」
「ちょっとさ、うちに着てくれないかな?」
「どうして?」
「ちょっとね。それは着いてから話すから。行こうよ」
「うん……」
なんだかよく分からないけど、お姉さんは意味深な笑みを浮かべてさっき家を出た時みたいに手を引いてぼくを連れて行った。
2
お姉さんの部屋に来るのは相当久しぶりだったと思う。前に来たときは確かお互いにまだ小学生だったはず。
「あのね、プレゼントがあるの」
そう言ってお姉さんはクローゼットをあさり始める。僕はそんなお姉さんをどうしていいのか分からずにベッドに腰掛けて見守っている。
しばらく探していてお姉さんは「あった!」と言って僕に一枚のワンピースを見せる。
「どうしたの?」
「これをあげようと思って」
「え?」
「着てみない?」
「え……あ……」
お姉さんはニコニコしながら僕にワンピースを手渡す。僕は戸惑いながらそれを受け取る。
白地に細い青のストライプが入ってるワンピースだ。襟元に刺繍がしてある。
これ、お姉さんが着てるの見たことがある。
「多分、サイズ、ちょうどいいと思うんだ。」
「……うん」
お姉さんに言われるまま、僕は着替える事になった。着ていたTシャツとジーンズを脱いでワンピースに着替えるんだけど、どう着ていいのか分からなくてほとんどお姉さん任せになってしまった。
自分では気がつかなかったんだけど、お姉さんに少しだけど胸が膨らみはじめてるって言われた。自分で体を見下ろしても分からないけど、分かるようになるまではどれくらいかかるんだろう。怖い。
お姉さんに言われてまた一つ「女である証拠」が増えて正直、どうしていいのか分からない。どうしてだろう、さっきまで嫌だって思ってたのに、そう思い切れない部分もある。
ワンピースを着終わると、僕はベッドに座らされた。お姉さんは僕の後ろに座って髪をとかし始める。櫛で丁寧に。母さんに何度かされた事があるけど、その度に僕は拒否して立ち上がってた。だけど、お姉さんだと自然とそのまま続けてもらえる。だけど、やっぱり気持ちは複雑だ。
「髪の毛、すごく柔らかいね。伸ばせばいいかもね」
「伸ばす……?」
「あんまり長くしなくても、ショートボブくらいに、それなら少し伸ばすだけだし似合うと思うよ」
「うん……」
「嫌かなぁ?」
僕はなんとも答えられなかった。お姉さんは僕の横に置いたケースの中からヘアピンを手に取って僕の頭につけた。
僕から見える位地に鏡はない。だから今、僕がどうなってるのか分からない。
なんか、鏡を見るのが怖い。体が順調に成長を始めてる証拠を知った上で、この「女装」した自分を見たら僕はどうなってしまうのか見当もつかない。
髪が整っていくのがお姉さんの動作からなんとなくわかるけど、そうなった姿を想像するのはやっぱり不安だ。分かってる、何度も何度も毎日の生活の中で思い知ってるけど僕はもう二度と男には戻れないんだって感じずにはいられないだろうから。
でも、こうしてお姉さんに髪をとかしてもらってる事はなんだか凄く安心するし、心地いい。これはどっちなんだろう? この気持ちは今の僕と過去の僕どっちのものなんだ?
「さぁ、出来た!」
そう言って、お姉さんはベッドから降りて僕の前に来る。
お姉さんはすごく満足そうだ。そんな顔をするのは僕をどう言い表すのかすごく分かってる。一番、言われたくない言葉なんだと思う。本当なら喜ぶべきだけど聞きたくない、そんな言葉だ。
「立って」
「うん……」
僕はお姉さんに手を差し出されて言われたとおりに立ち上がった。
「じゃあ、目をつぶってくれるかな?」
「え?」
「ほらっ」
「うん……」
どうしたいのかは分かる。お姉さんは僕を驚かせたいんだと思う。そのまま鏡に顔を向けても、合図まで目を閉じても僕はどっちにしたって嫌な気分なのは分かりきってる。
お姉さんは僕の後ろに回ったのか僕の肩に手を置いてそっと押して誘導する。小さく一歩ずつ進む。小さな部屋の中だし、テーブルやベッドで動き回れるスペースはもっと狭い。
ドアの前の鏡まではすぐだったようで、そう何歩も歩かないうちにお姉さんは「ストップ」と言って僕の歩みを止めた。
スカートを履いた感覚はなんだか心細くてその感じと、歩くたびに付きまとう体が変わった証拠が僕の中でどんよりとした暗いものを漂わせている。
もう嫌だ。どうして、僕はこんな目に合わなければならなかったんだろう?
「目、あけてごらん」
お姉さんが僕の耳元で囁いた。僕は逃げ出したい気分で目をそっと開けた。
ほんの少しの間なのに何日も暗闇にいたかのように光が目にしみる。だけど、目の前にある世界が僕の目に届くのに慣れは必要なくて、すぐに鏡に映るものを見ることが出来た。
「これ……、僕?」
僕は目を見開いて目の前の鏡に映る自分の姿を見た。確かに僕だ。目を見開いている。すごくまぬけな表情だ。
だけど、すぐに自分の姿を理解すると表情を変えずにはいられなかった。
すごく、照れくさいんだ。
そこに居たのは少し子供っぽい刺繍入りの襟と青のストライプが入ったワンピースを着たまだ大人になりはじめてない女の子だった。
胸のそこのほうにたまっていたどんよりと暗いものは、少しずつ色を変えてくすぐったい感じに変わった。僕は――これは錯覚だったんだけど――昔からずっとこうしてかわいく着飾っていたようなそんな気がしていた。
そうか、僕、女の子なんだ。
「すごくかわいいよ。もうわたしが着るには子供っぽかったの。でも、捨てるには抵抗があってね。凄く好きな服だったから。嫌じゃなかったらもらってくれるかな? もうすぐ誕生日でしょ? 一応、他にも考えてはあるんだけどね。前祝みたいなものかな」
お姉さんは僕の後ろに立ったまま耳元で少しだけ抑えたトーンで言った。
「いいの?」
「嫌じゃないならね」
僕は「嫌じゃない」って返そうとしたけど、なんだか言葉が出てこなかった。しゃべろうとすると鏡の向こうの僕の姿が邪魔をするんだ。
「ねぇ。やっぱり男の子だからこういう格好するのつらい?」
「そんなことないよ! 僕――」
僕。自分をそう呼んできたけど、それでいいのかな? 直せって言われても簡単にできそうにないし、「わたし」とか言うのはなんか嫌だとも思うんだけど。
鏡の向こうに見えるお姉さんの顔は僕が言葉に詰まった理由を分かったみたいだった。目を優しげに細めてお姉さんはそっと後ろから僕を抱きしめた。
「僕、でもいいと思うよ。言葉は自然に言えないとね。それにあなたは元々言葉遣いがきちんとしてるから。無理に取り繕うと変だよ」
「うん。そう、だね」
「今の『僕』はどんな気分かな?」
「照れくさい」
「どうして?」
「なんか、女の子なんだなってのがくすぐったいんだ。さっきまで嫌だったのにこういう格好するの、なんか楽しい」
「そっかぁ」
お姉さんは納得したように頷くと僕をクルッっと自分の方に向けた。僕の目に今見えるのは鏡越しの自分じゃなくてお姉さんだ。
「荒療治じゃないかってちょっと、不安だったの。おばさんから話しは聞いててね。おばさんはあせってるんだと思うけど、女の子である事を拒むあなたが心配なのよ。望んでなったじゃないにしても、あなたは女の子になったわけだからね」
「うん」
それが本当に辛かった。僕は男の子だって、この体に変わってからもずっと思ってたから。それが無意味なのも分かってたけど。
「わたしにはね、やっぱり分かってあげられないと思うの。だけど、わたしがもし、明日から男の子になれって言われたら辛いはずだから。でもね、『気付いてないだけ』、『慣れてないだけ』なら少しでも早くあなたの中に生まれた『女の子』を見つけて欲しかったの。だから、こうしたんだけど。本当に、嫌じゃない?」
「うん。完全にじゃないけど、でも、なんか照れくさいけどいいなって思った。自分で言うの変だけど、鏡で見た僕、かわいかったから」
変だよ。自分で「かわいい」って言うの。でも、それが正直な感想なんだ。
「変、だよね?」僕は照れかくしに冗談っぽく笑いながら言う。お姉さんはそんな僕にニコニコして首を横に振る。
「それいいのよ。自分の事、かわいいって思ってあげないとかわいくなれないもの」
「そうなの?」
「うん」
僕はやっぱり照れずにはいられないみたいでそわそわした感じに負けそうになって息を少し震わせた。お姉さんはそんな僕を見て「よかった」って言った。
「え?」
「わたしね、妹が欲しかったの。でも、結局この年まで一人っ子のままでしょ? でも、こうして、弟みたいに思ってたあなたが妹になったみたいだから。なんか嬉しくなっちゃう」
お姉さんはそう言って僕の頭をなでる。お姉さんの妹か。小さい頃からお姉ちゃんとかお姉さんとか呼んでたからちょうどいいかもね。
「お姉ちゃん」
僕は自分より少し背の高いお姉さんを小さい頃にしてたように呼んでみた。
「なぁに?いもうと」
「変だよ」
「あ、それもそうね」
なんか、今の体に変わって初めて落ち着ける時間がやってきたような気がする。
まだ実感とかないけど、でも、格好だけかもしれないけど少しは自分が女の子になった事を認められるかもって気はした。
これはお姉さんが手を引いてくれたからだと思う。小さい頃ずっと一緒だったのに「近所に住んでる人」くらいの存在になりかけてたからこうしてまた仲良しでいられるきっかけが見つかったのが嬉しい。
でも、僕はあの先生たちに呼ばれる前から仲良しでい続けるきっかけを欲しがってたんだ。僕はお姉さんを好きだったんだ。
たぶん、それは今もだと思う。男の子だった僕からの地続きな「好き」って気持ち。まだ十分に女の子になっていないからなんだろうか。よくわからない。
とはいえ、どっちにしても小さい頃に比べて遠のいた距離が縮まって凄く嬉しい。この短い距離はきっと男だったらありえない、女同士だからの距離だとは思うけど。
「どうしたの?」
お姉さんはじっと僕が見るのを不思議に思ったのか首をかしげる。
「僕も一人っ子だから、うれしい」
「そっかぁ。いいこいいこ」
そうしてまた僕の頭をなでる。
妹って呼ばれるともだちなのはこれからきっとずっとなんだろうね。
でも、僕はいつまでお姉さんに対して「男の子だった頃からの好き」を持ち続けるんだろう?
それは「女の子としての好き」を誰かに持つときなのか、「男の子だった事」を忘れたときなのか。どっちかは今の僕にはわからない。
少なくとも、「遠くなっていく好きな人」が「大好きなお姉さん」になる以上の変化が僕に起こることは確かだと思う。
どうなるかはそれが十分に済んだら分かるから、今はそれでいいのかもしれないって思うんだ。
今の、ところはね。