短編小説

マリンスノー・クリスマス

2018年12月21日 1:32

​​

 今日、あたしはとても不思議な夢を見た。

 今日だけじゃない、昨日、一昨日、その前の日……覚えているいるかぎりずっと同じ夢を見ている気がする。

 雪の降る公園をはしゃぎまわる夢。そんな夢を毎日、毎日、毎日、ずっと見ている。

 もし目が覚めなければ夢の中の世界を現実だと勘違いしてしまいそうなほどその夢はリアルで、まるで、誰かがあたしをもう一つの世界に連れて行こうとしているような感じさえしてしまう。

「夢、なんだ……」

 あたしはベッドから身を起こすとそう呟いた。

 毎朝の第一声を丁寧に覚えてるワケじゃないけど、あたしは毎日、朝起きるたびに同じ言葉を呟いている気がする。

 頭の中にあの夢のリアルできれいな雪の降る映像が強く焼きついていて落ち着いていられない。

 そんな妙な気分を落ち着けるためにあたしは軽く深呼吸をする。

 一瞬、同じことを何度やってるんだろうなんてことが頭を過ぎったけど、あたしはすぐにその考えを打ち消した。

 そんなこと、考えたって頭が痛くなるだけだってよく分かってるからね。

​​

 突然だけど、あたしは生まれてから一度も自分の目で空を見たり、肌で風を感じたことがない。

 あたしの住む街には空というものが存在しないからだ。

 この街は18年前にできたばかりの新しい街で水深500メートルくらいのところに建設された半球状のドームの中の海底都市。家の外に出て上を見ると強化アクリルだとか色々なもので作られた透明な屋根とそれを支える骨組みがある。

 つまり、あたしの上空には空じゃなくて海があることになる。

 地上の人たちはこの街の景色を不思議に思うかもしれない。

 けれど、あたしにとってはTVで見る地上の景色のほうが不思議に思える。ましてあたしは生まれてから一度もこの街の外に出たことがないからなおさらだ。

 何度も外へ出たいと思ったことはあるけど、あたしの両親は共働きの上に仕事が忙しくてほとんど休みはないし、まだ13歳のあたしのお小遣いじゃ地上行きの電車やハイウェイバスに乗ることもできないし、訪ねていく親戚もいない。

 簡単に言うと「地上に行くのはムリ」ということ。

 この街は大好きだけど、夢の中ように外の世界にある空や風――特に雪を自分の体で感じてみたい。

 あの雪の冷たさや不思議なくらい透明な空気。あれが本当なのかどうか確かめてみたい。

 あの夢のせいなのか雪へのあこがれはつのるばかり。

 だけど、あたしは毎日この気持ちの行き所に悩んでいるだけで何の行動も起こせないでいる。

 あたしはまだ13歳の子ども。だから仕方ないことだろうけど。

 地上から照明用光ファイバーで送られてくる太陽光で成長した季節のないマロニエの並木道を散歩するのがあたしの日課だ。

 並木道の真ん中で目を閉じるとあたしの心の中に風の音が響いた気がした。

 あわてて目を開くとその音はすぐに姿を消してしまう。

 悲しいことだけどしばらくの間、地上はあたしにとって遠い世界のままのようだ。

​​

​​

 地上の季節は冬に入ったばかりの頃。12月のはじめ。

 定期テストも終わり、冬休みに入る前で学校の雰囲気もずいぶん和らいでいる。

 授業が終わって放課後になると、あたしはカバンを抱えてマロニエの並木道を歩いていた。

 いつもならまっすぐ家に帰るところだけど今日は寄り道をすることにした。

 いつも散歩しているこの並木道に向こうには小さな丘があって今日は何となくそこに行きたくなったからだ。

 あまり人気(ひとけ)のないところだけどあたしにとってはお気に入りの場所だ。

 並木道をぬけて石畳の階段を登る丘の頂上に着くとあたしは辺りを見渡してみる。

 小さい頃から大好きなこの場所は今もずっと変わってない。

 きっと、ここはずっとあたしの大好きな場所なんだと思う。いつか、地上に行くことができて雪を見ることができたた時には一番じゃなくなっているかもしれないけれど。

 クリスマスが近くてにぎやかになってる商店街とは違ってここは人気がなく、とても静かだ。

 狭い街なのにこれだけ差があるなんて不思議。

 これで風が吹いて空気がもっと透明で――雪が降ってきたら最高なのに。

 でも、ここは海底に建設されたドームの中。そんなことが起こるわけがない。

 あたしは周りに人がいないことを確かめるとあたしはベンチに横になって透明なドームの屋根の向こうに見える青い海を眺めた。

 あたしはいつになったら地上に行けるんだろう……。

 あたしはいつまであの夢を見続けるんだろう……。

 寝ても覚めてもあたしはあの夢とまだ見ぬ地上と雪のことばかり考えている。

 あたしにホワイトクリスマスがやってくるのだろうか。

 空から舞い降りる雪に包まれる瞬間が……。

​​

 しばらく目を閉じているとあたしは人の気配を感じた。

 気になって目をそっと開けてみるとあたしの目にこちらをのぞき込んでいるひとりの男の子の姿が飛び込んできた。

「あ、起きたみたいだ。こんにちは、はじめまして」

 年の頃はたぶんあたしと同じくらいであろうその男の子は声変わり前特有のきれいなボーイソプラノでそう言った。

「あ……」

 あたしは(けして寝てたわけじゃないけど)開いたばかりで明るさになれていない目をこすりながら言葉として成り立っていない声を出した。

 男の子は興味深そうにあたしのことを見ている。

 あたしはいつまでも横になっているわけにもいかないので身を起こすことにした。すると、男の子はあたしの顔を再びのぞき込んで口を開いた。

「こんなところで寝てるなんて変な子だね。どうしてこんなところで? お昼寝?」

 男の子は「あれなぁに?」とやたら周りの大人たちに聞きまわる幼児のようにたずねる。

 あたしは彼の姿を視界から追い出すように横を向いて「寝てたんじゃないわ」と返した。

「じゃあ、何してたの?」と彼も返す。

「別にいいでしょ」

「よくない。すごく気になる」

「あのね……」

 あたしは正面を向いて彼の姿を視界の中に戻すと、その顔をじっと見た。

「別にあなたに関係ないでしょ。どうして見ず知らずの人にそんなこと……」

 あたしは彼の姿がすごく変わっていることに気づいて思わず言葉を止めてしまった。

 どうしてすぐに気づかなかったんだろう。もしかしたら目を閉じているときに寝ぼけてたのかもしれない。

 彼の髪の毛はきれいな銀色をしていて、目はドームの外の海のように深い蒼色をしている。

 この街に住んでるのは東洋系民族の血を引く人ばかりなので髪や目は黒か茶色のどっちかというのがほとんど。あたしの髪や目も茶色をしていて例外ではない。

 あたしはこの街から出たことがないから、青い目の人をあまり見たことはないし、銀色の髪を持つ人がいるなんて知らなかった。

 あたしは彼のその不思議な姿に正直、驚きを隠せなかった。

「どうしたの? いきなり黙り込んじゃって」

「……あ、ごめんなさい。あなたの髪……とか目が、その……」

「んっ? ……あ、これね。そっか、ここって、ブルーアイとかグリーンアイの人ってあんまりいないもんね。髪の毛も銀なんて珍しいことこの上ないはずだしね」

 彼はあたしに見せるように銀のきれいな髪の毛を軽くつかんだ。

「僕ね、この街に来たばかりなんだ。前は『静かの海』の居住ブロックに住んでたんだけど、おじいちゃんの仕事でね――僕、おじいちゃんとふたりっきりなんだけど――今日、ここに来たばかりなんだよ」

 男の子は早口でそう言うと辺りを見回した。

「たまたま散歩してここに来たら、ベンチで寝てる女の子がいたからおもしろいと思ったんだけど、ごめんね、迷惑だったかな?」

「……う、ううん。別にそんなんじゃないの。ただ、知らない人から声をかけられることなんてあんまり――というより、全然ないからちょっと、その……」

 男の子が謝るのを見てあたしはあわててそう言った。

 はっきり言ってあたしは彼がなれなれしく話しかけてきたのがイヤだったんだけど、なぜかはっきり「迷惑だ」と言う気にはなれなかった。

 あたしは確かにお人好しの部類に入る方だけど、それとは違うような気がする。

 じゃあ、何かと言われると困るけど。

「そっか、よかった。でさ、ベンチに横になって何してたの?」

「ちょっと考えごとを、ね」

「ふーん、そうなんだ。僕はチャネリングでもしてるのかと思ったよ」

 男の子は笑顔で言う。あたしは彼のその言葉に思わず吹き出してしまった。

「変なこと言う子ね。そんなわけないでしょ」

「冗談だよ。でも、結構、不思議な雰囲気だったな」

 とてもやわらかい口調で男の子は言う。

 彼の口調や仕草はあたしの知ってる他の男の子たちとは違って何だか、不思議な感じ。ここ以外の男の子はみんなこうなんだろうか?

「そう言えば自己紹介がまだだったね。僕の名前はナユキ。菜の花の〝菜〟に、冬に降る〝雪〟で〝菜雪〟。女の子みたいな名前だけど正真正銘、男の子さ」

 菜雪……。

 彼の名前を聞くとあたしは思わず夢の中の雪を思い出した。彼の印象があの夢にそっくりな気がしたから。

「で、君の名前は何ていうの?」

 菜雪は興味津々といった感じであたしの顔をのぞき込んだ。

「あたし?あたしはミレイよ。〝美〟しい〝鈴〟と書いて〝美鈴〟。あたしの名前は女の子らしいかな?」

「美鈴か……。きれいな名前だね」

「そう? ありがとう。ところでさ、菜雪はこの街は初めて?」

「うん。衛星軌道のステーションで生まれて地球育ち、一年前から先週までさっき言ったように月に住んでたんだ。美鈴はずっとここに?」

「そうよ。一度も地上に行ったことないの。だから、あなたの名前にある雪も知らないの。もちろん、空も風も」

 菜雪はあたしが言ったのを聞くと少し驚いたような表情を見せた。

 地上の人たちにはあたしの言葉が信じられないのかも。

「そうなんだ。じゃあ、さっきの考えごとって、その雪なんかのことだったとか?」

 あたしはうなずく。すると菜雪は「なるほどね」と言うと――

「雪なら、もうすぐ見れるかもね……」

 ――菜雪はそう遠い目をして呟いた。

「どういうこと?」

「内緒。でも、ウソなんかじゃないよ。その時が来たら教えてあげるよ。だからもう少し待ってて」

「…………………?」

 あたしは菜雪の言ったその言葉の意味が分からなかった。

​​

​​

 今日、あたしの通う学校は終業式だった。

 これから2週間と少しの間、学校に行かなくていいということになる。宿題があって大変だけど、やっぱり休みというものはうれしいものだ。

 ただ、学校の友達はみんな地上に行くそうで、いつもの冬休み同様、あたしはこの街に取り残される。

 だけど、今までみたいに寂しい思いはせずにすみそう。

 学校の友達はみんなこの街からいなくなるけど、菜雪も行くところがなくてこの街に残るそうだから。

 さっそく今日あたしは菜雪の家に招待された。

 菜雪と初めて会ってから何度も一緒に遊んでるけど彼の家に行くのは初めてだ。

 菜雪の家は丘の近くのマンションの一室。あたしはそこに着くとドアチャイムを押して彼が出てくるのを待った。

 菜雪はあたしがドアチャイムを鳴らしたのを聞くと「はーい、ちょっと待って下さーいっ!」と言って、すぐに出てきた。

 相当あわてて出てきたらしく菜雪は多少息を荒くしていた。

「やぁ、美鈴。早かったね。どうぞ、あがってよ。あ、かなり散らかってるけど気にしないでね」

「おじゃまします。シュークリーム持って来たんだ。一緒に食べよう」

「ホント!? ありがとう、美鈴」

 菜雪は本当にうれしそうにそう言うと、あたしを中のリビングに案内した。

 彼の住むこの部屋は割と広くて、4,5人の家族が住むのに全く不自由をしないくらいの広さだ。この街はドームの中にあるため結構狭い。だから、こんなに広い部屋のマンションというのはあまりない。このマンションは結構高いって話だけど、ここまで広いと値段を聞くのがさすがに恐くなる。

 だけど、リビングや玄関は段ボールだらけでかなり殺風景なのが残念なところ。

「ごめんね。引っ越してきて3週間たつのに全然片づいてなくて。ウチ、荷物が多い上に僕とおじいちゃんのふたりっきりだから時間がかかってさ。それに、今、おじいちゃん。今忙しいんだ」

「菜雪のおじいさんって何の仕事してるの?」

「技術者だよ。この街の空気循環システムを開発したチームのメンバーだったらしいよ」

「へぇ……。すごい人なんだ、菜雪のおじいさんって。でさ。菜雪のお父さんとお母さんってどこにいるの?」

「死んだんだ。結構前に。僕も写真でしか知らない」

「……あ、ごめんなさい。あたし……」

「いいよ別に。どうせ僕もよく知らないんだし。だから、僕の親はおじいちゃんと3年前に死んだおばあちゃんだよ」

 菜雪は別に何でもないという感じでそう言った。だけど、あたしは結構気まずいような気がする。

「あ、お茶入れるね。せっかく美鈴がシュークリーム持ってきてくれたんだもん。それに僕、シュークリーム大好きなんだよね」

 あたしが気まずそうにしているのを気遣ってくれたのか、単にシュークリームを食べたいだけなのか分からないけど、菜雪が話題を変えてくれて正直助かった。

 菜雪はキッチンに行ってから割と短い時間でリビングに戻ってくると丁寧に自分とあたしの分のお茶を入れてあたしに差し出してくれた。

 そして、あたしたちは色々な話をしながら彼の入れてくれたお茶とシュークリームを味わった。

 その時の菜雪の表情はとてもうれしそうだった。

 彼は本当にシュークリームが好きみたいだ。

​​

 あたしと菜雪はお茶を飲み終わってシュークリームも食べ終わるとカップとお皿を片づけて再びテーブルについた。

 話がひと段落つくと菜雪は頬杖をついて窓の外を眺め始めた。

「ここってさぁ、不思議な街だよね」

 菜雪はそう呟くとあたしの方に目を向けた。

「ここに来た人ってみんなそう言うみたいね。でも、あたしにしてみれば地上の方がよっぽど不思議だな」

「そう言うと思ったよ。月にいたころもね、みんなそう言うんだ。月はまだ人が住み始めてそんなにたってないから小さい子だけだけどね」

「この街から出たことないのはあたしの周りには誰もいないの。あたしだけ。だから、空のある場所が不思議だなんて言っても誰も分かってくれないのよ」

「だからホワイトクリスマスを知らない?」

「そう!」

「そっか……」

 菜雪はあたしをじっと見て意味ありげな笑みを見せた。

 あたしはそんな彼を不審に思った。

「もしさぁ、今年のクリスマスがホワイトクリスマスだったらどうする?」

 菜雪は笑みを浮かべて言う。

 彼の表情と言葉からあたしは急にあの雪の夢を思い出して、なぜか体に電気が走ったような感じがした。

「どうって、その……」

「僕はこの間――美鈴と初めて会った時に言ったよね。『雪なら見れる』って」

「言ったっけ?」

「ひどいな、言ったよ。その時、君は不思議そうな顔をしてた」

「そうだっけ?」

「そうだよ。どういうことか知りたくない?」

「えっ……?」

 一瞬、あたしは菜雪があたしのことをからかってるんだと思った。

 でも、彼の目はとてもウソをついているようには見えない。

「信じてくれないのかな? そうだよね、信じろってほうがムリか……」

 そう言うと菜雪は立ち上がってあたしを見た。

「なら、教えてあげるよ。行こう」

「どこに……?」

 座ったままあたしは言った。すると菜雪は再び意味ありげな笑みを浮かべて――

「それは行ってのお楽しみ、だよ。早く行こうよ、美鈴」と言って、うれしそうにあたしの手を取った。

​​

​​

 菜雪に連れて行かれたのは街のちょうど真ん中のオフィス街にあるこの街で一番大きなビルだった。

「ねぇ、菜雪。こんなとこ来てどうするつもり?」

「まだ内緒。ここのビルの最上階におじいちゃんの仕事場があるんだよ」

「それはさっき聞いたけどさ、それがさっきの話と何の関係があるの?」

「いいから、いいから。まずは最上階に行こうよ。そうしたら全部分かるからさ」

 菜雪はあたしの背中を押してビルの中の方に入れようとする。仕方ないのであたしは黙って歩くことにした。

 正直、彼が何を言ってるのかよく分からなかった。

​​

 エレベータは最上階の22階に向かっていた。

 あたしは菜雪が何のためにあたしをここに連れてきたのか分からなくて多少不安だったけど、菜雪の誰かに内緒にしていたプレゼントを渡す前のような楽しそうな表情を見てあたしも最上階に着くのが楽しみな気がした。

 菜雪とは友達になって2週間ちょっとのつきあいだけど、彼が変なことするような子じゃないことはよく分かってるつもりなので安心してもいいような気がするし。

 あたしはエレベータの階数表示からちらっと菜雪の方に視線を移した。

 あたしの目には銀色の不思議な髪の毛と深い蒼の瞳が特徴的な菜雪の姿が入ってくる。

 あれっ……? どうしたんだろう。

 何かを楽しみに待ってる時のような無邪気な笑顔を浮かべている菜雪の姿が視界に入ってくると、あたしはなぜか体に弱い電気が走って顔が熱くなった気がした。

 あたしはそんな感じが不安に思えて首を左右に振って体からそれを追い出そうとする。

「どうしたの、美鈴?」

 菜雪が不思議そうに言う。

「別に、何でもない……」

 あたしは小さめの声で言う。その言い方はまるで何かを言いつくろうような言い方だ。

 変に思われちゃうかな……?

「……変な美鈴」

 菜雪は特に意味を込めてないような感じで言う。

 確かに変かもしれない。だけど、さっきのって何だったんだろう。

 まぁ、治まったみたいだし、気にしなくていいかな……?

 あたしはとりあえず気分を落ち着けようと再び階数表示に目をやる。

 ちょうど階数表示が『22』に変わってベルの音が鳴った。

 すると、なぜか菜雪は『Close』のボタンを押してドアを開かないようにした。

「ねぇ、美鈴。ちょっと目を閉じてくれないかな?」

「どうして?」

「いいから。別に何もしないよ。たぶん、すごく喜んでくれると思う」

「信じていい?」

「もちろんだよ。さ、早く」

「わかった。本当に何もしないでね」

 そう言ってあたしは目を閉じた。

 そして、あたしの後ろ側にまわったと思われる菜雪がそっと手をあたしの肩に置いた。

 その瞬間、少しだけびっくりしてびくっとしてしまったけどすぐに菜雪の手だと分かると安心できた。

「ドアが開いてるから僕がいいって言うまで歩いて。ただし、危ないから一歩ずつゆっくりね」

 菜雪が耳元で囁くと、あたしは彼に言われたとおりにゆっくり歩き始めた。

 菜雪がきちんとガイドしてくれるとはいえ、目を閉じて歩くのは不安だ。あたしは脅えながら歩いていた。

「いいよ。ストップ。さ、美鈴、ゆっくり目を開けてみて」

 あたしは菜雪の言うとおりに目を開いた。

 すると、あたしの目には驚くべき光景が飛び込んできた。

「すごい……」

 あたしの目の前には巨大な天体望遠鏡のような形をした装置があったからだ。

 ただ、その装置が望遠鏡じゃないことはすぐに分かった。

 海の底にあるこの街で天体望遠鏡を使うことはできないし、その装置は形こそ似ているものの、大きなファンがあっていくつもの管がつながっていてあきらかに天体望遠鏡とは違っていたからだ。

「すごいだろ。これ、おじいちゃんが作ったんだってさ」

「何なの、これ!?」

「何だと思う?」

 菜雪はもったいぶるように言う。

「わかんない……」

「――だよね。実はね、これは降雪機なんだ」

「こう…せつき……?」

「そう、降雪機。雪を降らせるための機械だよ。さっき言ったろ? 『雪なら見れる』って。これのことだったんだ」

「……本当なの?」

「うん。信じられないかもしれないけど本当さ」

 菜雪は人差し指だけを立てて右手を口元に持っていき、悪戯っぽく微笑む。

 ――普通、男の子がこういう仕草をするとイヤなものだけど菜雪がやると似合う気がするのは顔立ちが女の子っぽいというか中性的なせいなのかな?

「この街にホワイトクリスマスが……?」

「そうだよ」

 あたしは急に体から力が抜けた感じがした。

 そして、あたしの頭の中にサブリミナル効果のように夢の中の雪が焼きついた。

 ずっとあこがれてきたホワイトクリスマスが毎日、毎日、夢に出てくる雪景色が現実のものになるかもしれない――そう考えたとたん、急にあたしはそわそわしてきた。

「ねぇ、菜雪、いつこの機械を使うの!?」

 あたしは自分ではっきり分かるほど興奮気味に言った。

「5日後、イヴの日ですよ、お嬢さん」

 不意に背後から聞き慣れない声が聞こえてきて、あたしは驚いてびくっと体を震わせた。

 そして、そっと後ろを向くと細身で髪の毛が真っ白な上品でやさしそうなおじいさんがいた。おじいさんは白衣を着ていて、胸ポケットに顔写真のついたIDカードと思われるカードをクリップに挟めているので一発でここの人だと分かる。

 その印象を一言で表すなら、「昔の映画に出てくる老紳士」といったところ。

「菜雪、もう友達ができたのかい?」

「もう2週間だよ。おじいちゃんが手続きを忘れたせいで登校するのが3学期からになったとはいえ、友達がいてもおかしくない頃だと思うけど?」

 菜雪はおじいさんにそう言うと、わざとふてくされたような仕草をとる。

 ――ってことは?

「菜雪、この人って?」

「僕のおじいちゃんだよ」

「この人が……」

 あたしは菜雪のおじいさんの顔を見た。

 そして、菜雪の顔を見ておじいさんの顔と見比べる。結構そっくりな顔立ちかも……。

「これはこれは、自己紹介がまだでしたね。私は菜雪の祖父の治(おさむ)といいます。よろしければお嬢さんあなたのお名前を教えていただけませんか?」

「あたし、ですか? あたしは美鈴って言います。〝美〟しい〝鈴〟と書いて〝美鈴〟です」

「美鈴さん?」

「はい、そうです」

「〝美鈴〟……」

 おじいさんはあたしの名前を聞いて何かを考え始めたようだった。

「あの、何か?」

「あ、いや。昔、あなたによく似た名前を聞いたことがあったもので。何でもありませんよ、気にしないで下さい」

 そう上品な口調で言う。その口調も仕草も見た目と同じで映画の中の老紳士のよう。

「菜雪のおじいさんって優しそうな人だね」

 あたしは菜雪に耳打ちをする。

「そう思う? 美鈴にそう言ってもらえるとうれしい」

 菜雪も耳打ちで返してくれた。

「菜雪……」

「何、おじいちゃん?」

「せっかくお友達を連れてきたんだ。美鈴さんを案内したらどうだ? そのために連れてきたんだろう?」

「そうだね。おじいちゃんは仕事に戻る?」

「ああ。そうさせてもらうよ。どうしたんだ?」

「あの、さ。おじいちゃんにここを案内して欲しいだけど……」

「そんなこと言って。お前がよくても美鈴さんはイヤかもしれないだろう――」

「――そんなことないよ。ね、美鈴」

 そう言って、菜雪はあたしに同意を求める。断る理由もないし、どちらかというとおじいさんの印象がなんだか気に入ったのですぐにあたしは「うん」と答えた。

「ほら、美鈴もいいって。だって、僕が案内するよりおじいちゃんのほうが分かってるんだから、おじいちゃんが案内した方がいいに決まってるよ。どうせ休みとってないんでしょ? だったら休憩も兼ねて……」

「美鈴さん、いいんですか?」

「ええ、あたしもおじいさんの話聞いてみたいです。もし迷惑じゃなければ……」

「――ほら、美鈴もそう言ってるしさ。お願い」

 菜雪がそう言うとおじいさんは「やれやれ」といった顔で菜雪を見た。

「わかったよ。じゃあ、案内しよう。お前の言うとおり朝から働きづめだ」

 おじいさんは菜雪の頭をくしゃくしゃっとなでた。菜雪はご主人に甘える子犬のように嬉しそうな顔をする。

 そんなふたりの様子がとてもうらやましく思える。

 小さい頃はあたしにもこういうことがあったと思うけど、小学校の中学年ころから共働きをしている両親が忙しくなってひとりぼっちみたいなものだったから。

​​

 菜雪のおじいさんは親切にこの降雪施設を案内してくれた。

 2年前に増築されたこの22階にある開閉式の天井のこと。

 地上で中くらいの大きさのスキー場ならまるごとカバーしてくれるほど強力な降雪機のこと。

 この街にホワイトクリスマスがやってきたらどうなるかなど、本当なら難しいはずの話をおじいさんは上品で優しげな口調で分かりやすく説明してくれた。

 話を聞いていくにつれて、この巨大な機械が降雪機だと教えられた時に蘇ってきた毎日見る夢の中の記憶がだんだん現実味を帯びてきた。

 毎日、毎日、あたしを悩ませてきたリアルなあの夢は5日後の予知夢だったのかもしれない。あたしはそう思ってしまう。

 でも、ひとつだけ分からないことがある。地上の世界を知らないあたしがどうして夢の中で寒さや冷たい風の感覚をリアルに経験しているかということ。

 もし、雪が降った時の空気の感じが夢の中と同じだったら今年のイヴはあたしにとって何か意味のあることなのだろうか。

​​

​​

 「菜雪ってさ、おじいさんのこと大好きなんだね」

 帰り道。あたしと菜雪はマロニエの並木道を歩きながら話をしていた。

 菜雪はあたしの言葉を聞くと「どうしていきなりそんなこと聞くの?」と言った。

「だって、菜雪、おじいさんといる時、すごく幸せそうだった」

「美鈴に対して不機嫌そうだった?」

「そんなこと言ってないでしょ。この街のどこを探したってあんな仲のいい親子いない――ごめん、親子じゃないよね」

「――親子だよ」

「えっ?」

 あたしは菜雪の言葉の意味が一瞬分からなかった。

「僕は両親のことを全く知らないし、僕を育てたのはおじいちゃんとおばあちゃんだ。僕の親はおじいちゃんとおばあちゃんだけだよ」

 胸に手を当てて菜雪はそう言うと道の両脇に植えられたマロニエの木を見上げた。

「そう言えば、おばあちゃんも死ぬ前によくこんな並木道を散歩してたな……」

 遠い目をして菜雪は言う。彼の様子から、おばあさんもおじいさん同様優しい人だったのが分かる気がする。

「ねぇ、菜雪。ひとつ聞いていいかな?」

「何?」

「菜雪のお父さんとお母さんって何歳の時に亡くなったの?」

 菜雪はあたしが訪ねるとマロニエの木に向けていた視線をあたしの方に移した。

「マイナス5歳」

「マイナス……?」

 あたしは菜雪の言ってる意味分からなかった。

「僕が生まれる5年前さ」

「からかわないでよ」

 あたしは菜雪がよく冗談を言うのを知っているし、悪気はないのは分かっているので怒らずに軽く笑いながら言った。

「冗談なんかじゃないよ」

 そう言った菜雪は明るい表情だったけど、目は冗談を言ってるときのそれとは明らかに違っていた。

「僕は保存されていたお父さんの精子とお母さんの卵子から生まれた試験管ベビーなんだ。それも代理母のお腹の中じゃなく人工子宮で育った――」

 あたしは菜雪の言葉に一瞬混乱した。

 彼の言ってることが分からなかったわけじゃない。試験管ベビーや人工子宮のことは保健の授業で習ったし、今時、小学生でも知ってる。

 ただ、人工子宮は開発途中で完成してないって教科書に書いてあったし、仮に今日のニュースで完成したことを伝えても彼が生まれたのは13年前だ。そんなことがあるわけじゃない。

「――ちょっと待って! 人工子宮ってまだ完成してないんでしょ。なのに……」

「うん、いまだに未完成だよ。でも、僕が生まれたときにはもう受精卵を赤ちゃんとして誕生させる間で育てることは出来たんだ。――その時に問題が見つかってそれが解決できないから未完成なんだけどね」

「問題……?」

「そう。――っと、ここから先は話が長くなる。あそこに座ろう」

 そう言って菜雪は道の脇に備え付けられたベンチを指さした。

「そうね」

 あたしは何が何だか分からなくなったせいか力無くそう言うと、ベンチのところまで行って腰掛けた。

「――どこまで話したっけ?」

「問題がどうとか……」

「そう。問題、だよね。山ほどあって長くなりそうだから比較的大きいものだけ言うね」

 菜雪は自分を育てたという人工子宮とその問題点、自分の身体について話し始めた。

 今から16年前、菜雪の両親が亡くなって2年後のこと。菜雪のおじいさんは人工子宮のメインプログラムを設計する仕事に就いていたという。

 装置をプログラムが完成してから、不妊症の夫婦から受精卵の提供を受けて臨床試験をするはずだったけど、提供者が現れず、生前、菜雪の両親が保存していた精子と卵子を受精させて使用したのだという。つまり、その時誕生したのが菜雪だ。

 いざ、臨床試験を始めてみると菜雪の言っていた問題が発生した。

 普通、お母さんのお腹の中なら10ヶ月くらいで十分に成長するはずが3年もかかってしまうこと。それも十分ではなくてどうしても未熟児になってしまう。

 さらに、未熟児であるためにどんどん他の問題が出てきてしまったらしい。

「言ってしまえば僕の身体は生まれたときからボロボロみたいなものなんだ。美鈴は知らないと思うけど、僕、すごく体が弱いんだ。――気をつけていれば何ともないんだけどね」

「…………………………………………………………」

 あたしは菜雪の話のすごさに言葉が出てこなかった。

 彼の目を見れば話が本当だって分かる。でも、正直、どう信じていいのか分からない。

「あと、この髪と目もそうだね。僕も東洋系のはずなんだけど、あのころ使ってた薬の副作用らしくてこんな色になったんだって。突然変異ってヤツだね」

 菜雪は戸惑っているあたしとは対照的にのん気な口調で話している。まるでそれが誰に出もある当たり前のことのように。

「……どうして」

「んっ?」

「……どうして、そんなすごいこと、何でもないように話せるの?」

 菜雪の話に対する驚きのせいか、無理矢理声を絞り出すように言った。

 あたしの質問を聞くと菜雪は顔に優しげな笑みを浮かべた。

「僕にとっては何でもないことだからだよ」

「どうして……?」

「1日に3回薬を飲んで、月に1回病院で診察を受ける。僕の身体はそうでもしないと健康を保てないんだって。でもね、それを辛いと思ったことは一度もないんだ。面倒だと思うことはあってもね。生まれてからずっと続いてる〝習慣〟だからね。それに、その〝習慣〟さえ続ければ僕の健康は保証されたようなもんだし、他の子と同じように生活できる」

 菜雪は自分の胸にそっと手を置くと話を続けた。

「前、言われたことがあるんだ。『自分が作りものみたいでイヤじゃないか』って。でもね、僕はちゃんとしたお父さんとお母さんの子だよ。きっと、近い未来には僕みたいな子がたくさん産まれてくるだろうし。たとえ、僕のことを作りものっていうんだとしても、僕は僕さ。僕は自分のこと好きだし、僕を育ててくれたおじいちゃんもおばあちゃんも大好きだ。自分のこと話すのに抵抗なんてないよ」

 あたしは菜雪の話している間中、夢中になって彼のことを見ていることに気がついた。

 話している菜雪の目は曇りなくきれいでその顔からは自分に対する自信すら感じられた。

「どうしたの、何かずっと僕の顔ばっか見て、顔になんかついてる?」

 あいかわらずのやわらかくてのん気な口調で言う菜雪。どうしてだろう? 彼のそんな様子を見てると何だか安心できる。

「最初に会った時、なんとなく不思議な子だなって思った菜雪がなんだか……」

「なんだか?」

「すごく不思議だなって」

 あたしがそう言うと菜雪は吹き出してしまった。

「何それ? ワケわかんないよ」

 菜雪は笑いながら言う。我ながら訳の分からないことを言ったと思う。けれど、それが今のあたしの精一杯の言葉だった。

 あたしの中で言葉にできない〝何か〟が菜雪に対して形作られていた気がしたから。

「でもさ、それを言うなら美鈴もだよ」

「何が?」

「僕は本当の意味で母親を知らない子ども。それと同じように美鈴も空も風も知らない子どもだからね。多分、僕らは人類の中でも少数派に入ると思う」

 菜雪は笑顔でそう言うと顔を近づけあたしの目をのぞき込んだ。

「空も風も母親も人間が生きていったり存在したりするのに絶対必要。だけど、僕らは知らないんだ。つまり、他の人にあるものが欠落してる。だから僕らはきっと似てるはずだよ」

 菜雪はあたしから目を離すとドームの外の海を見上げた。

 その目は深い海の色とそっくりであたしはそんな彼の目に心を強く動かされた気がした。

「5日後、天気の存在しないこの街が雪景色に変わる。ここで待とう、この街で――美鈴の人生で最初のホワイトクリスマスをさ」

 生まれてから一度も空も風も、そして、雪も感じたことのないあたしを悩ませる現実と間違えてしまいそうなほどリアルな夢。

 いつからかは分からないけど、あたしの雪へのあこがれはあの雪を見るようになってからだと思う。あたしの中で手の届かない雪への思いはつのるばかりだった。

 あたしにとって雪は縁のないものだと思っていた。

 だけど、5日後、その雪があたしにとって現実になる。

「美鈴、楽しみだね。イヴが来るの」

 笑顔で菜雪は言う。

 あたしは一瞬、彼の笑顔を見て幸せだと思うのと同時に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた。それもさっきエレベータの中で菜雪の笑顔を見たときと似ていて、それよりも強い。

 あの時、思いもしなかったけど、それが何なのかたった今、分かりかけた。

 でも、結論は出したくない。少なくても今は。

 そうすることで雪への思いが壊れてしまいそうな気がするから。

「早くイヴの日にならないかな…………」

 あたしは分かりかけた感情を閉じこめるようにそう呟いた。

 雪へのあこがれも、たった今気づきかけたあの気持ちもすべては5日後。

 今は雪のことだけを思っていよう。〝あの気持ち〟の答えはそれからでも遅くないことを信じて。

​​

​​

 何かを楽しみに待つ時、時間というものは長く感じるものだ。

 この5日間、あたしは今日のことばかり考えていた。

 今までは手が届かないものだと思って戸惑うだけだった雪の夢はこの5日間の間、毎朝あたしの胸を高鳴らせていた。

 毎日見るあの夢が手の届かないものから今日、現実へと変わろうとしている。

 今日の夜6時にその時が来るという。

 今日一日あたしは胸の高鳴りを忘れられそうにない。

​​

 地上では冬場、日が短くなる。この街全体の照明は地上の光を光ファイバーで送ってきて使っているため、地上同様夜は暗くなり街灯が使われている。だから、5時にもなれば民家の明かりと街灯の明かりだけになってしまう。

 時刻は5時15分。街灯で照らされたマロニエの並木道は思ったよりも暗くてひとりでいると心細くなる。

 並木道の向こうから来る菜雪の姿を見つけたとき、あたしは安心して肩に入った力を抜いていた。

「ごめんね、15分遅刻したね。暖かいかっこをして来ようと思ったら、服を探すのに手間取ってね。家は相変わらずあのまんまだから」

「段ボールだらけ?」

「そう。今日が終わったらおじいちゃんも休みを取るそうだから年内にはどうにかなると思う」

 菜雪はそこまで言うとポケットに手を入れて街の方を見た。

「――それより、街は大丈夫かな……」

「街……?」

「そう。この街の人は今日、雪が降ることなんて知らないはずだからね。考えてみると大変なことになるかもしれないじゃない。いくら少ないとはいえこの街には2000人も人がいるんだし」

「大丈夫じゃないかな」

「どうして?」

「菜雪は来たばかりだから知らないと思うけど、この街はこの時期になると人がほとんど街から出てくんだもん。みんな長い休みに入ると外で過ごしたいらしくてね」

「そうなの?」

「うん。300人くらいしかいないんじゃないかな」

「そんなにいなくなって大丈夫なの? だって、1700人も出てくって事でしょ?」

「そりゃね。この街は新しい上に治安もいいらしいからかなり自動化が進んでるらしいし」

「そっか、なら問題なさそうだね。何か起きる前に街の人たちに説明も説得もできる」

 あたしは菜雪が安心した様子を見ると、ふと疑問が浮かんできた。

「ところでどうしてこの街に雪を降らすことになんかなったの?」

 あたしがそう聞くと菜雪は街からあたしへと視点を変えた。

「気になる?」

「うん。考えてみればわざわざあんなすごい施設を作って雪を降らせる必要なんてどこにあるのかななんて思って」

「そうだよね。僕もおじいちゃんから聞いた時はボケたのかと思ってゾッとしたよ。でもね、あの機械の目的は本来別にあるらしいんだ」

「別?」

「そう。あれは街の緑化政策ってのがあって、そのために雨を降らす必要があるとかで始まったらしいよ。あの降雪機は雨を降らすこともできるように改造してるんだってさ。あそこで雨や雪を降らすことで四季を作って地上に近い環境を実現できるんだとか。――今日はその試験運用らしいよ」

 菜雪の話を聞いてあたしは最近、街のあちこちに木や花なんかが植えられているのを思い出した。

 確かにこの街は植物が少ない気がする。この街が木や花でいっぱいになるのはいいことかもしれない。

 あたしは頭の中に緑でいっぱいの海底都市の景色を想像していると一瞬、体が震えて寒気が走った。

「急に気温が下がってきた。降雪機のスイッチが入ったんだ。あの機械は四季を作るためのもの。空調システムとシンクロするようにできてるからね」

 菜雪は白い湯気のような息を吐きながら言う。あたしの息も白い。こんな経験は初めてだ。

 あたしは気がつくと上を向いて手を広げて雪を受け入れる準備をしていた。

「あっ……!」

 白い息を吐いてあたしは声を上げた。

 あたしは目に入ってくるその光景に目が釘付けになった。

 そう、たった今、作られてから18年間、四季の存在しなかったこの海底都市に初めてのホワイトクリスマスがやってきた瞬間だった。

「これが雪……?」

 あたしは前に手を出して最初の雪の一粒を掌で受けると祈るように胸のあたりで手を組んで呟いた。

「そうだよ、これが雪さ。これがこの街で、美鈴の人生で最初のホワイトクリスマスだよ」

 菜雪はあたしのことをじっと見ていった。

 あたしは胸の奥がそわそわしていた。

「やっぱり、あの夢と同じ。雪の姿も、この姿も……」

「夢……?」

「うん。あたし毎日同じ夢ばかり見るの。雪の降る公園の中をはしゃぎまわる夢。雪なんて、今、初めて見るまで遠い世界のことだったのにずっと、今感じているような冷たさもとってもリアルな夢をね」

 あたしは祈るように組んだ手を少しずつほどいて右手を胸に当て目を閉じた。

「でも、それだけじゃない。夢で見続けたのと違う。けど、雪の降ることがとっても懐かしいの」

 あたしは雪を初めて見てたった今感じたことを、頭の中で考えることよりも先に声というかたちで言葉にした。

 あたしにもどうしてかは分からない。けれど、今、目の前に広がる雪景色が妙に懐かしく思える。リアルすぎる夢を見続けたせいじゃない。もっと別の何か……。

 あたしはそっと目を開くと少しずつフェードインしていく海底都市の雪景色の中で菜雪が驚いた様子でこちらを見つめているのを見た。

 菜雪はその一瞬あと、彼の特徴の一つである深海のような深い蒼の瞳を曇らせて気まずそうな表情を見せる。

「それは……、美鈴が雪を懐かしく思うのは、美鈴にとってこの雪が初めての雪じゃないからだよ」

「何言ってるの? 今、『初めてのホワイトクリスマス』って言ったばかりじゃ……」

「確かに、今、この瞬間が美鈴の初めてのホワイトクリスマスさ。でも、雪そのものは違う」

「どういうこと……!?」

 あたしは菜雪の言葉を聞くと身体から力が抜けたような感覚を味わった。

 菜雪はあたしのそんな様子を気にかけることなく話を続けた。

「今から9年前のことさ。当時、僕にとって衛星軌道ステーションから地球にやってきて初めての冬だった。あのころ住んでいた家に住み始めて半年がたってすっかり地球の環境に慣れた頃さ。近くにある貸別荘にある家族が長期滞在を始めた」

 菜雪はそれまでそらしていた視線をあたしへと向けた。

「その家族が美鈴、君と君の家族――」

「――ちょっと待ってよ! あたしはこの街を出て地上に行ったことなんか……!」

 あたしは菜雪の言葉を遮って言った。

「君が覚えてる限りはね。じゃあ聞くけど君は5歳以前のことで何か覚えてることはあるのかい?」

 菜雪にそう言われるとあたしは頭の中が真っ白になった気がした。

 言われるまで気がつかなかったけど、あたしは小学校に入る前のことで覚えてることはほとんどない。入学前の数か月間のことをいくつか覚えてるくらいでその前のことは全く思い出せない。

「何もないだろう? きっと美鈴の中では5歳から人生がスタートしてるはずだよ」

 どう答えていいのか分からず困っているあたしに菜雪は言った。

「でも、どうして菜雪がそんなこと知って……?」

「その話は、遠回りで長くなるけど聞いてくれるかな?」

 菜雪はおじいさん譲りと思われるやわらかい口調で言った。

 そしてあたしはそれに対して小さくうなずく。

 彼はあたしがうなずいたのを確認すると小さく息をついて話を始めた。

​​

――美鈴の家族が長期滞在を始めた日、君は両親に連れられて僕の家にあいさつに来た。

 僕のおじいちゃんと君のお父さんは一度仕事で一緒になったことがあるらしくて手紙をやりとりするくらいのつきあいはあったんだって。貸別荘を紹介したのはおじいちゃんだったんだ。冬に長期休暇を取ったらどうかって、って勧めたらしくてね。

 初めて会った日から僕達は仲良しになった。丘で会ったときもそうだったようにね。

 毎日、毎日、僕らは遅くまで冬の寒さも気にせず顔を真っ赤にして遊んだものさ。

 クリスマスが近づいて美鈴が地上に来て2週間くらいたったある日のこと、僕らのいた地方に初雪が降ったんだ。他の年ならもっと早く降るはずだったんだけどあの年は暖冬で遅れてたんだ。

 海底都市で育った美鈴と宇宙ステーションで育った僕にとってその雪は初めてのことだった。

 だから嬉しかったんだろうね。その日は暗くなっても怒られるまで遊んだんだよ。僕たちは初めての雪を心の底から楽しんだんだ。

 でも、それがいけなかった。温度管理された環境――例えるなら温室育ちの僕らにとってその寒さの影響は大きかった。

 次の日、朝起きると僕は風邪を引いていた。今はアレルギーが出るから使ってないけど、当時は小さくて今よりもずっと弱い身体を守るために人工免疫システムを体内に入れてたから症状は軽かったしすぐに治ったけどね。

 美鈴も案の定、風邪を引いたらしくて次の日はお互い家の中。毎日一緒だったからすごく残念だったよ。でも、明日になればまた会えるからいいやって思ってその日は我慢することにしたんだけどね。

 でも、次の日、僕が貸別荘に行くと救急車が来てて、美鈴を連れて行ってしまって、二度と会うことはなかった。前の日から熱が出てて、その日の朝にそこから容態が急変したって君のお母さんが言ってた。

 美鈴のお母さんは「菜雪ちゃんのせいじゃないのよ」って言ってくれたけど、僕はその時感じた強い罪悪感には勝てなくて泣きながら「ごめんなさい」ってくり返してた。

 美鈴は病院に運ばれてから何ヶ月かICUの中だったらしい。ただの風邪がどんどん悪化して、たぶんその熱のせいだと思うけど、君は記憶喪失になって地上に行ったことやそれ以前のことが頭の中から消え去ったんだって。

 今話したことを覚えてないだろ? それはそのせいさ。

 このことは美鈴のお父さんがE-mailで教えてくれた。そして、その手紙にはもう一つ「美鈴が病気のことを知って辛くならないように地上に行ったことをなかったことにして、あなた方家族とのつき合いもこれで最後にしたい」って書いてあった。それ以来、君ら家族は地上に行くこともなくなって僕と美鈴は丘で再会するまでお互い平行線になったんだ――

​​

 菜雪が話し終えるとあたしたちは黙ってお互いを見つめていた。

 沈黙があたしたちのいる雪景色の海底都市を支配していた。街外れにあるこのマロニエの並木道にいつもかすかに聞こえてくる街のノイズもこの時期にはほとんどない。

 雪が降っていなければあたしはきっと時間が止まったと錯覚しているかもしれない。

「菜雪はあたしのこと知っててあの時、あたしに声をかけてきたんだ……?」

 沈黙を破ったのはあたしの方だった。

 あたしの言葉に菜雪は首を横に振る。

「ちがう。あの時は君が誰かは知らなかった。君に対する純粋な興味っていうのかな。そういうのだった」

「でも、名前を聞いて分かったんでしょ?」

「いや、9年前から君が美鈴っていう名前だって知らなかったよ。なんて呼んでたかは覚えてない。けど舌っ足らずで言葉のまともに使えないような頃のコミュニケーションだから〝美鈴〟とは呼んでなかったはずさ。それは何となく覚えてる」

「じゃあ、どうしてあたしがそうだって分かったのよ?」

「昨日、おじいちゃんが教えてくれた。5日前、美鈴と会って気になったらしくて仕事を休んで調べたんだって。美鈴が病院に運ばれてからの話はおじいちゃんから昨日初めて聞いたことさ。おじいちゃんも僕が辛くならないようにって何も言わなかったから。でも、話してくれてよかった。『そうだったらよかったのに』って、美鈴と初めて会ってからずっと思ってたことが現実になったから……」

「どういうこと……?」

「それはね――」

 菜雪は視線だけを一度横にやると、体勢を立て直すようにもう一度あたしを見た。

「美鈴は僕が初めて恋をした女の子だったから……」

 菜雪の言葉を聞いた瞬間、あたしの頭の中が急に真っ白になって、元に戻ると胸の奥が締め付けられるようで苦しかった。

 あたしは驚きで声が出なかった。

 菜雪の言ったことはあたしが5日前、今と同様に胸の奥が締め付けられるような感覚を覚えた時、その感覚に、菜雪に対して出そうとして、でも恐くてためらってしまった結論だったから。

「うそ……」

「うそなんかじゃないよ。始めてあった時ね、『あの子かもしれない』って思ったんだ。――いや、あの子だって決め付けてたかも――でも、聞けなかった。名前もきちんと覚えてなかったし」

「でも、他にも聞く方法が……」

「あったけど、罪悪感がまだ強く残ってるし、それに、『違うって言われるのが恐い』ってのもあったから。でも、本当にその通りだったなんて信じられないよ。『事実は小説よりも奇なり』って言葉がぴったりだよね。でも、君は……」

 菜雪はそう言葉を止めるときれいな銀色の髪の毛を軽くつかんで目を伏せた。

「ごめん。勝手に君の知らない昔話をした上にかってなこと言って。でも、どうしても言いたかったんだ。怒ってたら――」

「――怒ってなんかないよ。ただ驚いただけ。だって――」

「――だって?」

「あたしも、菜雪のこと好きだから」

 あたしはそう言うとまっすぐ菜雪を見ていた視線をそらさずにいられなかった。

 身体を言葉では表すことのできない感覚が支配している。

 そして菜雪はあたしのことをじっと見ている。

「本当……?」

「本当」

「信じていい?」

「うん。……ホントは恐かったの、気づいたとき。頭の中から無理に気持ちを追い出そうとして。でも、菜雪は言ってくれたからあたしも、じゃなくて……その、うまく言葉で言えないけど、『言わなきゃ』って気がした。9年前はどうかは知らないけど今は、菜雪のことが好き。あたしのホントの気持ち」

「……うれしい。美鈴の夢じゃないけど僕もずっとこの気持ちに悩まされてきたから。やっぱり、似てたんだね僕たち」

 笑顔で菜雪がそう言うのを聞くとなんだか懐かしくなった。この雪景色と菜雪の笑顔、もしかして、なくしてしまった9年前の記憶のかけらがまだあたしの中に残ってるのだろうか? もしそうならうれしい……。

「菜雪の目ってなんだか懐かしい。もしかしたら、9年前のあたしも菜雪のこと好きだったのかも……」

「美鈴……」

 菜雪は優しげな笑顔であたしを見る。

「こういう時、普通ならなんて言うのか分からない。けど、言葉はいいよね。言葉で自分を伝えられるほど大人じゃないんだから」

 菜雪は一歩後ろに下がってあたしから離れると10メートルほど軽く走る。そしてあたしの方を振り向いた。

「遊ぼうよ、小さい頃みたいに!」

 菜雪の言葉を聞くとあたしは彼のところに向かって走り出す。

 気がつくとこの並木道にはすっかり雪が積もっていてとっても走りづらい。でも、夢中になって走るあたしには全然気にならなかった。

 でも、慣れないせいだろう。あたしは菜雪のすぐ近くまで来るとバランスを崩してしまった。

「美鈴っ!」

 菜雪はあわてて倒れかけたあたしをつかまえてくれた。

「雪の上の歩き方も忘れちゃったんだ。気をつけないと、9年前に転んで大泣きしたんだから……」

「じゃあ、教えて。あたしの忘れちゃったこと。雪も、それ以外も全部……。9年前、あたしがどんな女の子だったのか気になるもん」

「うん。僕の知ってる美鈴の、美鈴の知らない昔のこと、全部教えてあげる。これから少しずつ、ずっとね……」

 微笑んだ菜雪の顔はやっぱりなんだか懐かしかった。

 きっと、あたしは9年前も今と同じように菜雪のことを好きだったんだと思う。でも、今はそれがどうだったか知ることはできない。だからあたしは信じることに決めた。

 菜雪に対する気持ちは今この瞬間も、9年前の、あたしにとっての初雪の瞬間も同じだったことを。

​​

​​

 昼を過ぎる頃には青空はすっかり曇り空に変わっていた。

 その様子が窓から見えると、あたしは心配になって外へ飛び出した。

 12月の空気は冷たくて身を縮めたくなる。

 あの夢にそっくりだわ……。

 あたしはそう思うとなぜか切なくなった。

 今のあたしは28歳。もう菜雪と会ってから15年もたってしまった。

 あたしを悩ませたあの夢は気がつくとあたしの中から姿を消して、今ではずいぶんといろんな夢を見るようになった。どんな夢を見たか忘れることもしばしば。

 それだけじゃない。この15年、あたしの菜雪の間には色々なことがあった。

 高校生1年生の頃に菜雪と一緒に(今のあたしにとって)初めて地上に行き、それから3年ほどたってふたりで地上の大学に進学した。――といっても海底都市に大学はないためそれは必然だったのだけど。

 地上まで15分、大学の近くの駅まで10分、合計25分の通学時間とごく平均的な値段の定期は13歳の頃にあれだけ地上を遠く感じたことがウソのように思えた。

 今にして思えば当時のあたしのおこづかいは13歳にしては少なかった気がするけど。

 そして、大学を卒業した頃、あたしと菜雪はお互いを生涯のパートナーにすることを決めた。そして、翌年、あたしは母親になった。

 今は菜雪のおじいさんから譲り受けた海岸近くの街にある家に住んでいる。

 おじいさんはというとあの海底都市が気に入ったらしくて隠居してからもあのマンションに住み続けている。

「もう、中に入りなさーいっ! 寒いでしょう!?」

 あたしは家の前の原っぱではしゃいでいる小さな女の子に声をかけた。

「はーーーーーいっ!」

 彼女はあたしの声を聞くと顔を真っ赤にしてこちらへ走ってきて抱きついてきた。

「ママ、雪、降ってくるよ!」

「そう? でも、寒いでしょう。いつまでも外にいたら風邪ひいちゃうわよ」

「平気だよっ!」

 女の子は元気いっぱいに言う。

 この女の子はあたしと菜雪の子だ。髪はあたしから茶色、目は菜雪から深い蒼色を受け継いでいる。

 名前はあたしと菜雪の名前からとって、〝みゆき〟という。

「だめよ、みゆき。お母さん、小さい頃に風邪引いて大変だったんだから。みゆきだって風邪ひくのイヤでしょ? だから、お家に入ろう」

「でもぉ……」

「ココア入れてあげるから」

「やったぁっ!」

 あたしの言葉にみゆきはフグのように頬を膨らませていたのをやめて笑顔に変わった。

 喜ぶみゆきの手を引いてあたしは家の中へと向かう。

「みゆき、来週、お父さん帰ってくるって」

「本当っ!?」

 みゆきはあたしの言葉を聞くとうれしそうにじたばたと喜び始めた。

 今、菜雪は海底都市とここを行ったり来たりして生活している。

 最初の頃あたしたちは海底都市に住んでいたけど、おじいさんからこの家を〝別荘〟として譲り受けてから少しずつこちらにいることが増え、いつのまにかあちらが別荘になってしまっていた。

 あちら家は家で通信を使って仕事をしているあたしと違って菜雪の職場が向こうにあるため必要なのだ。

 家にいることは少ないけれどみゆきは父親のことが大好きだ。帰ってくることが分かるとみゆきはいつも喜んではしゃぎ回る。

 家の中に着くとみゆきは案の定あたしから離れてはしゃぎ回っている。

「あたしね、おとうさんとゆきだるまつくってね、かまくらつくってね、ケーキたべるの。だって、クリスマスだもんっ!」

 そう言うとみゆきを見てあたしはなんだか幸せな気分になった。

 もうみゆきは4歳になる。あたしと菜雪が出会った頃と同じ年。その時のあたしはこんな感じだったのだろうか。

 もうクリスマスが近い。

 あたしはみゆきの元気いっぱいの笑顔を見てもうすぐ来るクリスマスにプレゼントするものを決めていた。

 それは、あまり海底都市に行くことのないみゆきがまだ知らない景色――海の中のホワイトクリスマスだ。

Recent Stories