ショートショート
シュガートーストの一時間
2009年12月30日 0:29
目覚まし時計が鳴るとぼくは少しだけ耳が痛くなる。
出窓でのんきにしているぼくのすぐ横で目覚まし時計のやつは毎朝毎朝、飽きもせずにこのご近所さんより少しだけ広いのが自慢の家中に聞こえるくらいの大声で叫んでいる。
まったくまったく。正直言うと、蹴飛ばしてやりたいところだけどそうもいかないからじっとこうして止めてもらえるのを待っているしかないんだ。
「あ~、あ~~」
すごくマヌケな声を出しながら君はブランケットに顔をもぐらせたまま、手探りで目覚まし時計の場所を探す。
そして、毎朝のお約束。目覚まし時計と間違えてぼくの頭を叩くんだ。時に強く、時に恐る恐るなでるように。今日はずいぶんとそ
っとだ。よかったって言っておこうかな。
しばらく手を左右に動かしていると、ようやく目覚まし時計を見つけた君は元気が余りすぎのあいつの大声を見事に止めた。
そうすると、少し前までの夢の世界の香りでびっしり満たされていた時みたいに静かな部屋に逆戻り。違うところがあるとすれば、あいつの頭のベルのシャウトの余韻がかすかにだけどしっかりと耳の奥底にこびりついている事くらい。
この変な静けさはとても違和感を覚える。それがどうしてなのかはよく分からないけど、すごく変な事は確かなんだ。
気持ちの中だけ無音の波に揺れていると、君はブランケットのプールでぐるぐる回るように泳ぎ始める。ぼくはそれをただ黙って見ているんだけど、すごく心配してるんだ。
無音――そう言ったんだけど、実際のところはとなりの目覚ましの奴がしっかりと音を立ててるんだ。叫び声みたいなのじゃなくてずっとこそこそ立ててる音。
そいつを数えていると、今君がこうして夢に半分くらい浸かりながら、ベッドのスイマーを気取っている事が結構まずいってはっきり分かっちゃうんだよね。
こういう時はぼくも大声で叫んで教えてあげたいところなんだけど、それはぼくの役割じゃないし、そもそも、そんな事は昔から不可能な事なんだ。
だから、この状況をどうにかするには、君自身が気付いてくれるか、この無邪気で小さな森の外から助け舟がやってきてくれるかどちらしかないんだよ。ぼくにはもうどうする事もできない、お手上げ。
ぼくの側からしてみても、君には早く気がついてもらわないと困るんだ。そうしないと、ぼくのせっかくのお楽しみがどんどん減っていってしまうわけだから。
ほら、早く起きなよ。さぁ、早く!
「いつまで寝てるの!? 早くしないと遅刻しちゃうわよ!」
助け舟が来てくれた。もう起きる頃だよ。君のママが呼んでるだろ? ね、起きて!
「もぉ~」
君は牛みたいな声をあげてふかふかの水面から顔を出した。だけど、窓の向こうから飛び込んでくるお日様がまぶしくてせっかく開けかけた目を閉じてしまう。
気持ちはすごいわかるよ。ぼくも背中がなんだか熱いんだ。
だけど、頑張ってよね。ここで布団にもぐったりしたらダメだよ、いい?
毎日、ぼくはこうやって心配してるわけだけど、ここまで来たらぼくは完全に信用してしまうことにしてるんだ。
目をこすりながら左右に揺れたりして、でも口元は笑ってる。これを見たらぼくはもう安心だ。こうした君のしぐさは完全に起きてるって証拠なんだもん。
まだ力の入りきらない手から開放されたら意識しない偶然なんだけど、ぼくとばっちりと目が合う。ぼくはそんな君をまっすぐ見てる。にこって笑う。
君がいるから今はちょうど見えないけれど、いつもこの部屋の全身鏡の端っこにうつるぼくの顔に君はそっくりな顔をする。
「おはようぉ」
そう言って君はぼくの頭をなでる。そして、顔を近づけて「えへへへ」って笑う。
毎朝の習慣。毎朝の幸せ。
「さ、ちょっと待っててね」
そう言って、君はなでていた手で頭をつかんでぼくを窓の外へ向ける。
ベッドから出た直後の君はいつもこうやってぼくを君から「あさっての方向」に向けるんだ。でもまぁ、それはそうだよね。ぼくはこれでも紳士のつもり。レディの着替えを見ようなんてよくないよくない。
今のぼくに見えるのは窓の外の景色。お向かいさんの庭で野良猫があくびをしてるのが見える。あの子はホントにいつも眠そうにしてる。面識はないんだけど、いつもこの時間にああやって寝足りないのかあくびをしてはだらしなく軒先のたんぽぽが咲いてるあたりで伸びてるんだ。
いつもどおりの外の景色を覗きながら、ぼくは背中に君の気配を感じている。猫なんかよりも君のことを考えてる方がずっといいんだよ。
君は鼻歌を歌いながらごそごそごそごそ着替えを次々進めていく。今日は動き出すまで時間がかからなかったからきっとすぐに服を決められたんだろうね。
時々、迷いすぎて外からママに叱られたり、痺れを切らしたママに勝手に決められてふくれっつらしてたりするんだよね。
どうやら動きがずいぶん小さいみたいだ。今はきっとリボンを結んでるんだろうね。
そんな事を考えながらぼんやりしていると、君はぼくをそっと抱き上げた。
「おまたせっ!」
君はぼくにほおずりをする。そして、満足そうにぷっくりしたほっぺたからぼくを放す。この位置からなら君のことがはっきり見える。
襟元に刺繍の入ったブラウスにデニムのスカート、そしてそれを留めるサスペンダー。眠りの国のお姫様からやんちゃそうなお嬢さんに変身した君がぼくの目にうつる。
着替えてる最中に歌ってた歌を再開しながら君はぼくを抱えて階段を下りていく。昨日眠る時に、お向かいに居座ったねこみたいな忍び足だったのがうそみたいにドタドタ元気いっぱい。
「おはよう!」
「おはよう。今日はお寝坊さんじゃなかったわね」
「お腹すいた!」
君はぼくをリビングとダイニングの境目のカウンターに置いてそそくさとトースターにパンをセットする。
君のパパはもう出かけたみたいだね。だから、バターやジャムはテーブルに置いてある。お皿を自分で出すと、ママがおかずをテーブルに置いていく。
パパが早出のとき以外は三人で食べるんだけど、今日は二人。君が寝てる間にパパはお仕事に行ったみたいだね。
焼いてるパンは二枚。ママの分と君の分。パンの用意は君の仕事、おかずの用意は君の仕事。そして、君はいつもパンの用意をしている時にバターの横にパパとママがコーヒーに使う粉砂糖を近くに寄せるのを忘れない。
「さぁ、食べましょうか!」
ママがスクランブルエッグとソーセージと野菜をお皿に盛ってやってくると君とママの朝ごはんが始まる。短いけれどこの時間の君の笑顔は素敵だよ。すごく嬉しそうだからね。
ぼくはそんな君をカウンターの上から見ていると、トースターから勢いよくパンが飛び出した。君は毎日の事なのにすこしびっくりしながらトースターを見る。
そして、こんがりおいしそうに焼けたパンを見ると満足そうに微笑むんだ。
この時にうれしいのは視界に入ったぼくに目配せをしてくれる事。
その時に君が顔をめいいっぱい使ってにこにこするのはこの後、パンにする素敵なアレンジのせいだってのはぼくにはよく分かってる。
片方のパンをママにあげると、君はお皿に乗せたパンにバターを塗り始める。バターは控えめ。だけど満遍なく。バターを塗り終わったらさっき近くに寄せた粉砂糖の出番。イチゴの柄のついたスプーンで沢山すくうとパラパラとまるでテレビショーの魔法使いがステッキから小さな星を散らすようにこんがりトーストの上にまぶしていく。
そんなスィートなトーストを君は幸せいっぱいにほおばる。
もちろん、ブロッコリーやレタスやトマト、野菜たちも食べないとママに怒られちゃうから合間合間に口に運ぶのを忘れないけどね。
素敵なトーストと野菜たち、そのほかのメニューを平らげながらママとお話していると、やがてやってくるのは忙しい瞬間。
「ふぅ…」
満腹なのかちょっと息を吐いた君は軽く椅子の上でリズムを刻むと、勢いよく立ち上がって入ってきた時にソファの上に置いておいた鞄を手に取る。
「それじゃあ……あっと、いけない!」
リビングから出ようとした君はあわててカウンターまで引き返す。
「行ってきます!」
そう言って、まずはママ、そしてぼくのほっぺたにキスをする。
この瞬間はもちろんとっても幸せなんだ。
「気をつけるのよ」
「うん! 行ってきます!」
二回目の行ってきますを言った後、きみはスタートの合図を聞いた馬みたいに家から勢いよく飛び出していく。
君と一緒の時間は夕方までお預けだね。ぼくはあわただしい君の姿を心の中でちょこっと笑いながらほっぺたの感触を思い出した。なんだかふわふわの毛で覆われたのぼくのほっぺがくすぐったい。
「あらあら…。ホントにあの子は……」
ママが苦笑いをしながらぼくを抱き上げた。その時、ぼくはちょうどソファーにうつぶせで置いてけぼりになってたんだ。慌てた君がソファーに置いた際にぶつかって倒れちゃったんだよね。幸せ気分で自分でも気がつかなかったよ。
ぼけっとしてて時間がすぎたらしくて、テーブルもキッチンもすっかり片付いたみたいだった。
ちょっとママは疲れた様子。
そんなママはソファーに腰掛けるとぼくをひざの上に乗せた。
「ソファに置いてけぼりなんてはじめてよね。じゃあ、今日は話し相手になってもらおうかしら。あの子が帰ってくるまでね」
そう言ってぼくの顔を覗き込んでにこって笑った。
その顔ってすごく君が笑った顔に似てるんだよね。なるほどね、親子ってこういう事なんだ。