ショートショート
うそつきの今
2008年12月15日 20:15
この季節になればやっぱり部屋の中にいても足元から冷えていく気がして心細い。
ブランケットが薄くて正直、このまま明け方の寒さから守ってくれるのかどうかがずっと不安でしょうがない。
窓辺にベッドを置くって結構、無謀なんだなって今日、ここに来て思った。寒さがどんどん伝わってくる。それもそうだ。この街は壁も窓も薄い家ばかりだけど、それは夏の暑さの方が問題だから。そんな事は分かりきってる。
「コーヒーの方がよかった? これだったら眠くなっちゃうかも」
隣で部屋の主はリスが木の実を拾い集めるように小さく肩をすくめる。肩がくっついてるこの状態だとその動きでこっちの肩がくすぐったくなる。
「でもね。冬はちょうどいいんだよ。しょうがの味がするでしょ? これが体を温めてくれるの」
お茶を入れながら何度もこのお茶のうんちくは語られた。お湯を入れるとラベンダーの花でお湯が最初に青くなるとか、寝る前に飲むとベッドが気持ちよく感じるとか。
正直言って、あんまり興味がないからひざに肘を置いて頬杖して「うんうん」と言って聞いてる。
昔はよくこれで怒られたもんだよ。「聞いてないでしょ」ってさ。
だけど、わたしは話が分からないだけで聞いていたんだよ。知らないから相槌以外の答えを知らないだけ。
飲み終わると真っ赤なテーブルにカップを置く。
「飲み終わった?」
「うん」
「おし、眠気覚まししようか! コーヒー入れてくるねー」
そう行って家主は少し広めのワンルームの反対側のキッチンへ走っていく。
「さすがに寝るわけに行かないよねー。あたしらの再会祝いだもん! 寝んなよ~!」
最後の一言だけ、何かのテレビのものまねなのか、やけに作った口調で言う。
「起きてるよ。これでも徹夜は得意なんだ」
わたしがそう言うと、部屋の向こうの古い友達は笑い損ねて咳き込んだ。
「あの頃のままだね。『○○は得意なんだ』って、しょっちゅう言ってたもん。でも――」
わたしはキッチンの方を見るのをやめて、全身鏡ごしに眺め始める。向こうは向こうで中途半端なところで言葉を止めてコーヒーにお湯を注ぐ。
「――ずいぶん違う事があるよね。あ、それはあたしにね。あたしの恥ずかしい勘違い」
勘違い――そう、わたしたちが再開した先月のいつもどおりの水曜日に向こうが困り果てた勘違い。本人にとってはそうとう恥ずかしかったみたいだけど、こっちにはちょっと嬉しかった。
勘違いというのは確かに間違ってない。けど、あれは完全に勘違いじゃないんだ。あの時から今まで黙ってる事があるから。そして、あれは多分、ずっと打ち明けずにいるんだと思う。
「さぁさぁ、おまたせ! 夜は長いからたんと召し上がれ」
あの頃はこうやって徹夜で肩をくっつけあって夜明かししようなんて思ったりしなかったな。
小さな子供だったし、それに何となくそれが許されない気がしたからね。
小学校4年生の夏休みに初めて彼女と会った。
彼女はあの頃からなんにも変わってない。鈴の様に笑い、やたらとリズミカルにしゃべる。東京からやってきた彼女は小さな田舎町の他の友達とはあまりにも違いすぎた。
向こうも向こうで、冗談抜きに星明りしか目の頼りにならない暗い夜がくるような田舎が珍しかったのかいつも楽しそうだった。
それから毎年、夏休みのお盆の前後一週間くらいあの小さな町にやってくる彼女を心待ちに一年を過ごすようになっていた。
わたしは彼女に沢山、東京では見られないようなものを教えてあげた。
虫取りもそうだし、崖の上り方もそう。空き地に色んなものを隠したりもした。
わたしはあんな夏が毎年来るんだと思って、「夏が一番好き」と常に言うようになった。
だけど、数年後にはわたしは夏を嫌いになっていた。
中学二年生の春先だった。わたしが学校から帰ると母が喪服に着替えている。
あの町ではたいていの人が知り合いだったし、年寄りばかりだったからまた誰かが亡くなったのかと思って少し寂しい気持ちになっただけだった。
母に通夜で出かけるからと留守番とその後の葬儀に出る準備を言いつけられて、なんとなく線香の匂いが嫌だなってぼんやり考えていた。本当にその程度にしか思わなかった。
だけど、母が行き先として告げた家の名前を聞くとわたしはすごく嫌な予感がした。
その家はわたしの夏だけの友達が滞在していた家だった。
彼女のお婆さんの家。しかも、あの家はそのお婆さんの一人暮らしだった。
凄く嫌な予感がした。あのお婆さんにはこの町に親戚はいない。もしかしたら今年の夏からもうここには来ないかもしれない。
母がわたしにいろいろな事を言いつけて家を出るまでの短い間、頭の中でそんな事が駆け巡ってひとりきりの家の中でわたしはずっと黙ったまま動けなくなっていた。
結局、その日は徹夜。それも人生ではじめての。体が不安で疲れて関節全てに重石を乗せられたような変な感覚で朝日を見て、わたしはなんだか出来ないって思った徹夜が簡単だって思ってなんだかおかしかった。
だけど、そこのあと、手伝いを抜け出したと言って朝食を作りに家に戻ってきた母に制服を着るように言われた。
そして、「あの家のお孫さん、泣いてるから年の近い子がいたらいいだろう」と付け足した。
それを聞いた瞬間、わたしは行きたくないって思った。いや、母は知らないけど、そのお孫さんとは友達で早く行って慰めてあげたいって気持ちでいっぱいだった。だけど、行くわけに行かない事情があるって気づいてしまった。
わたしはその時、体調が悪いと嘘をついて、制服に着替えずに部屋に戻った。
布団に包まるとわたしはこの先、もう彼女に会えない事を悔やんで心の底から泣いた。
だけど、仕方なかった。セーラー服を着てあの家に行くわけにいかない。
あの頃、わたしは心のなかで自分の事を「僕」って呼んでた。そして、彼女の前でも。
まだ誰にも言ったりしてないけど、わたしはずっと自分を男の子だと思って生きてきた。誰もそんな風には見てはくれないし、自分でも隠してる。
だけど、わたしの中には「僕は男の子だ」って確信があった。
他所から来た彼女とはじめてあったとき、やんちゃで髪も短かったわたしを男の子だと間違えた事がなんだか嬉しくてそれまで夏のあの短い時間は他の人となるべく会わないように遊んで男の子でい続けていた。
そんな彼女がこの町で唯一の友達である男の子が、セーラー服を着て現れたらどんな顔をされるか想像するだけで怖かった。きっと拒絶されるに決まってる。だから、行っちゃいけないって思った。
自分の為にも彼女の為にも。
いや、彼女の為にもは少しだけ嘘かもしれない。
ほとんど自分の為だ。
拒絶されたらもう生きていけないって思った。それは、彼女から見た僕と僕から見た彼女は違う。
そう。僕はある時期から彼女の事が好きだったんだ。
多分、自分の体が心に反して母や他の大人の女の人たちのかたちに近づき始めた頃。
彼女に対する気持ちがどれだけ大きなものか、特別なものか気づいてしまったんだ。
自分のものであるはずのこの体が逃げる事を許さない苦痛を与えるようになっていく中で夏の短い嘘だけが唯一の希望だった。
だけど、子供である僕が葬式という場で着る事を許される唯一の服は彼女の前での自分を嘘だとこれ以上ないほどはっきりと告げてしまう。
だから、決めるしかなかった。会わずにお別れだって。
窓の向こうは濃い青紫から白に変わり始めてる。
あれから長いようで、これからわたしたちが学生として過ごす時間と同じくらいの長さしか経っていない。本当にあの頃は子供だったんだ。
あれから周りの友達よりゆっくり目に大人になっていった体に付き合ううちに、女としての自分をそれ程嫌がる事もなくなった。
とはいえ、それはけして「男だという確信」がなくなったというわけじゃない。諦めるように「納得」したにすぎない。
自分を「わたし」と呼んだって、結局、気持ちは一緒。ただ、隠すのが楽になったくらい。
一月前に再開したときに、お互いにあの頃の友達だと知らずに仲良くなった。その時は彼女は同性の友達として見ていた。あの頃の学校の友達と同じように。
だけど、話しているうちに共通点を見つけてその糸を手繰り寄せてるうちにその事を知った。わたしは知ったときに正直怖くなった。
だけど、彼女は驚くと同時に恥ずかしそうに「男の子だと勘違いしたこと」を謝った。そう、たいした事じゃなかったんだ。少なくとも彼女にとっては。
それを知って、わたしはなんだか複雑な気持ちになったけど、「気心の知れた女の子同士」としての日々はまだ始まって短いけど、かえって心地よかった。
だけど、やっぱりわたしはあの頃と変わらない。
わたしから見た自分自身じゃなくて隣で眠る、懐かしい友達の事も。
あれから「寝るなよ」って言ったくせに彼女は話しつかれて寝てしまっていた。
だけど、眠る直前、彼女がした打ち明け話はわたしにとって忘れられないような事だった。
「実はさ、初恋だったんだよね。内緒だったけど。それなのに女の子だったなんて。あたしはバカだよね」
わたしはこの言葉を聞いたとき、凄く動揺した。そして、同様を悟られないように何度もコーヒーをお代わりした。
両想いだった事があったって事なんだ。絶対に知る事なんて出来ないだろうけど、後からでもこうして知れた事はうれしい。
でも、僕は今もこうして好きなんだよ。多分、こうしてすぐ近くで「気心の知れた女の子同士」っていう嘘をつきながら片想いをし続けるんだ。
それはとても悲しいけど、そうしていれば想いは叶わなくてもこうして体温を感じる事もできる。そう、近くにはいれるんだ。
近いけど孤独な、つらい時間が続くだろうけど。
だけど、ちょっとだけ希望はある。自称ロングスリーパーの君と「徹夜が得意」な僕の間だから出来る秘密の時間がね。
こうしてる間だけ、両想いを空想させて欲しいんだ。
どうか、目覚めないでね。少しの間だからそのまま眠っていて。
僕は少しずつ体の向きを変えて顔を彼女に近づける。少しずつ、少しずつ。
緊張で震えてる。彼女の寝息がくすぐったい。
震える息を止めてぼくはこわばる体に絶えられず目をとじる。
だけど、確実に近づいていた。くちびるってこんなに柔らかいんだ。
もう少し続けていたい。だけど、ダメだ。気づかれてしまう。
罪悪感と彼女の目が覚めないかの不安から逃げるように僕は彼女から遠ざかる。
息が上手く吸えない。呼吸が落ち着くまではまだかかりそう。今日は少しも眠れないだろうな。
ごめんね。だけど、これだけが僕の希望だから。このまま嘘と秘密を重ね続ける事にどうかいつまでも気づかないで欲しい。
空が色づいてきた。僕がわたしに戻るまであと何時間だろう……。